Wednesday, June 30, 2004
Las Vegas (NV)
ラスベガスに到着。目にするもの全てが煌びやかで、毎日想像を絶する量のお金が動いているという空気を肌で感じられるような街である。またこれだけ多くの日本人を目にしたのは、この旅始まって以来である。周囲に日本語が溢れ、一目で日本人と分かる観光客たちが大挙して動いている様を見るのは何となく違和感がある。
到着初日の夜は、ラスベガスで最も有名なシルク・ド・ソレイユの「オー」を観た。3ヶ月前から売れ始めるという人気のショーで、購入を思い立った10日ほど前には当然ながら正規ルートでは完売状態。インターネット上の仲介業者は無数にあるものの、料金が倍以上と完全なダフ屋である。折角ラスベガスまで来てこれを見ない訳にはいかないので、仲介業者の中から最も安いところを選んでチケットを購入した。
オーは水を使った幻想的なショーというイメージだったのだが、これがとにかくド迫力。基本的にはサーカスなのだが、これにオリンピックさながらの高度な技や、音楽、アートの要素がふんだんに取り入れられている。出演者たちの衣装やメイク、大掛かりな舞台装置にも目を奪われる。合間合間に出てきてコミカルな演技を見せるピエロの二人組にも和まされた。
それにしても僕と同じ人間にこんなことができるのかという驚きの連続で、どんな人が演じているのだろうという興味が自然と湧いてくる。スタイルと運動神経の良い人というようなレベルではなく、スーパーな人材を世界中から集めているのは明白である。シンクロ元日本代表の奥野史子さんが以前このショーに加わっていたという記事も目にしていた。
後で購入したプログラムを見ると、アメリカ、イギリス、カナダと並んで、ロシアや東欧諸国、モンゴル出身者が非常に多く、やっぱりそうかと納得させられる。あの軽快な動きとずば抜けた身体能力は、正にロシア、東欧のお家芸、体操競技そのものであり、あの信じられない体の柔らかさはモンゴル雑技団(勝手なイメージですが)そのものである。他にもシンクロ、高飛び込みなど、世界レベルのアスリートが集まっているようだ。シルクドソレイユは、他にミスティア、ズーマニティという二つのショーをラスベガスで行っている。いつかまた機会があれば是非観に行きたいと思う。
翌日は朝一からグランドキャニオン日帰りツアーに参加。このツアーはウェブで検索したアメリカの会社で予約したのだが、なぜか日本語を話す現地係員が複数駐在していて「日本人の方はこちらに集合してくださーい」と無理やり話を聞かされる。元々日本の旅行会社のパック旅行は大嫌いなので、これにはがっくり来た。韓国人のお役人さんご一向も同じツアーに参加しており、ロビーやバスでは日本語と韓国語が飛び交っている。隣りに座った韓国人のおじさんによると、彼らは2週間程度の予定でハワイ、西海岸、ラスベガス、ニューヨーク、トロント、カルガリーなどを回るとのこと。観光旅行とは言えものすごいハードスケジュールだ。ところでその予算は国民の税金ですかとはさすがに聞けなかった。
このツアーはセスナで移動するという宣伝だったので、ビューポイントや谷底まで飛んで行ってくれると勝手に勘違いしていたのだが、ホテルからバス-セスナ-バスを乗り継いで、二つのビューポイントで休憩するだけというひどい内容だった。全行程8時間の大半を移動と待ち時間に取られ、すっかり疲れてしまった。おまけに帰りのセスナでは人生最大の揺れを1時間に渡り経験した。途中から慣れてしまったので特に苦にはならなかったが(妻がすやすや寝ていたのにはさすがに驚いた)、後ろのインド人らしき女性はずっと紙袋を握り締めていた。これだけ揺れれば当然そういう人も出てくるだろう。
肝心のグランドキャニオンだが、やはりスケールは桁違いだった。ヤバパイ・ポイントからの眺望も素晴らしかったが、圧巻はセスナの行き帰りに上空から観た光景だろう。川が山を浸食してできたという様子も良く分かる。スケールの大きさには驚くばかりである。ただどこまで行ってもほぼ同じ光景なのと、これまでの道中やセドナでミニサイズのものは何度となく目にしていたので、思ったほどの感動はなかった。
ホテルに帰着したのが午後6時過ぎ。夕食を済ませた後、せっかくラスベガスに来たので少しだけギャンブルをかじってみるかとホテル内のカジノに出かける。貧乏旅行なので、貴重な予算をギャンブルで摩る訳にはいかない。妻と20ドルずつというささやかな予算を設定、万が一勝っても100ドルを超えたらストップという基本ルールを決める。スタートはブラックジャックと決めていたのだが、ミニマム・ベットが25ドルという表示に目を丸くする。「カジノは初めて」と言うと、親切なディーラーの女性が「だったらあっちの方が安い額を賭けられるからそこからスタートした方がいいわ。もし勝ったらここに戻ってらっしゃい」と親切に教えてくれる。
しかしそこでもミニマム・ベットは15ドル。つまりブラックジャックを1ゲームして、負けたら20秒足らずで1700円(二人で3400円)が飛んでいくことになる。庶民の感覚からするとかなり怖い。とりあえず(というか既にほぼ予算額上限)ミニマムの15ドル分のチップをそれぞれ購入、それをそのままテーブルに置いてゲーム開始。ビギナーズラックか、僕は2回連続21が出て幸先良く連勝。15ドルが45ドルになる。その後、二人ともしばらく好調を持続した後、一進一退の展開となり、やや負けがこんで二人とも45ドルに戻った時点で一旦頭を冷やすために中断。
3倍にまで増やした予算を使って次はルーレットで勝負(ミニマムベット10ドル)。最初は二人とも縦一列に賭けて見事に当たり10ドルが3倍の30ドルに。僕は次に思い切って4つの数字にまたがって賭ける9倍勝負。これがなんと大当たり。ビギナーズラックは恐ろしい。10ドルが90ドルになる。それから少し負けて自分の持ち金が120ドルになった段階で席を立つ。妻はもう一勝負するというので後ろから見守るが、しぶとく縦一列の3倍をゲット。結局妻も持ち金を100ドルにして終了。二人合わせて30ドルが220ドルに増えたことになる。30分足らずで200ドル。カジノにはまる人の気持ちもなんとなく分かるような気がする。
最初に設定した目標に達したので、ここで止めるべきかどうか暫し相談。やっぱり止めよう、いやもう一勝負、思い切ってこの220ドルを一点賭けの36倍(約80万円)か、などといろいろ揉めた後、結局は初志貫徹で退散することに。確かに大金は魅力だが、それを考え始めるとキリがないし、2人とも勝って気分良く終わるのも悪くないという結論に達した。200ドルという成果も上々である。
ラスベガスは全てがゴージャスで、刹那的な魅力に溢れているが、僕たちのような庶民が長居する場所ではない。軽く気分だけ味わってラスベガスを後にする。次はいよいよ西海岸である。
到着初日の夜は、ラスベガスで最も有名なシルク・ド・ソレイユの「オー」を観た。3ヶ月前から売れ始めるという人気のショーで、購入を思い立った10日ほど前には当然ながら正規ルートでは完売状態。インターネット上の仲介業者は無数にあるものの、料金が倍以上と完全なダフ屋である。折角ラスベガスまで来てこれを見ない訳にはいかないので、仲介業者の中から最も安いところを選んでチケットを購入した。
オーは水を使った幻想的なショーというイメージだったのだが、これがとにかくド迫力。基本的にはサーカスなのだが、これにオリンピックさながらの高度な技や、音楽、アートの要素がふんだんに取り入れられている。出演者たちの衣装やメイク、大掛かりな舞台装置にも目を奪われる。合間合間に出てきてコミカルな演技を見せるピエロの二人組にも和まされた。
それにしても僕と同じ人間にこんなことができるのかという驚きの連続で、どんな人が演じているのだろうという興味が自然と湧いてくる。スタイルと運動神経の良い人というようなレベルではなく、スーパーな人材を世界中から集めているのは明白である。シンクロ元日本代表の奥野史子さんが以前このショーに加わっていたという記事も目にしていた。
後で購入したプログラムを見ると、アメリカ、イギリス、カナダと並んで、ロシアや東欧諸国、モンゴル出身者が非常に多く、やっぱりそうかと納得させられる。あの軽快な動きとずば抜けた身体能力は、正にロシア、東欧のお家芸、体操競技そのものであり、あの信じられない体の柔らかさはモンゴル雑技団(勝手なイメージですが)そのものである。他にもシンクロ、高飛び込みなど、世界レベルのアスリートが集まっているようだ。シルクドソレイユは、他にミスティア、ズーマニティという二つのショーをラスベガスで行っている。いつかまた機会があれば是非観に行きたいと思う。
翌日は朝一からグランドキャニオン日帰りツアーに参加。このツアーはウェブで検索したアメリカの会社で予約したのだが、なぜか日本語を話す現地係員が複数駐在していて「日本人の方はこちらに集合してくださーい」と無理やり話を聞かされる。元々日本の旅行会社のパック旅行は大嫌いなので、これにはがっくり来た。韓国人のお役人さんご一向も同じツアーに参加しており、ロビーやバスでは日本語と韓国語が飛び交っている。隣りに座った韓国人のおじさんによると、彼らは2週間程度の予定でハワイ、西海岸、ラスベガス、ニューヨーク、トロント、カルガリーなどを回るとのこと。観光旅行とは言えものすごいハードスケジュールだ。ところでその予算は国民の税金ですかとはさすがに聞けなかった。
このツアーはセスナで移動するという宣伝だったので、ビューポイントや谷底まで飛んで行ってくれると勝手に勘違いしていたのだが、ホテルからバス-セスナ-バスを乗り継いで、二つのビューポイントで休憩するだけというひどい内容だった。全行程8時間の大半を移動と待ち時間に取られ、すっかり疲れてしまった。おまけに帰りのセスナでは人生最大の揺れを1時間に渡り経験した。途中から慣れてしまったので特に苦にはならなかったが(妻がすやすや寝ていたのにはさすがに驚いた)、後ろのインド人らしき女性はずっと紙袋を握り締めていた。これだけ揺れれば当然そういう人も出てくるだろう。
肝心のグランドキャニオンだが、やはりスケールは桁違いだった。ヤバパイ・ポイントからの眺望も素晴らしかったが、圧巻はセスナの行き帰りに上空から観た光景だろう。川が山を浸食してできたという様子も良く分かる。スケールの大きさには驚くばかりである。ただどこまで行ってもほぼ同じ光景なのと、これまでの道中やセドナでミニサイズのものは何度となく目にしていたので、思ったほどの感動はなかった。
ホテルに帰着したのが午後6時過ぎ。夕食を済ませた後、せっかくラスベガスに来たので少しだけギャンブルをかじってみるかとホテル内のカジノに出かける。貧乏旅行なので、貴重な予算をギャンブルで摩る訳にはいかない。妻と20ドルずつというささやかな予算を設定、万が一勝っても100ドルを超えたらストップという基本ルールを決める。スタートはブラックジャックと決めていたのだが、ミニマム・ベットが25ドルという表示に目を丸くする。「カジノは初めて」と言うと、親切なディーラーの女性が「だったらあっちの方が安い額を賭けられるからそこからスタートした方がいいわ。もし勝ったらここに戻ってらっしゃい」と親切に教えてくれる。
しかしそこでもミニマム・ベットは15ドル。つまりブラックジャックを1ゲームして、負けたら20秒足らずで1700円(二人で3400円)が飛んでいくことになる。庶民の感覚からするとかなり怖い。とりあえず(というか既にほぼ予算額上限)ミニマムの15ドル分のチップをそれぞれ購入、それをそのままテーブルに置いてゲーム開始。ビギナーズラックか、僕は2回連続21が出て幸先良く連勝。15ドルが45ドルになる。その後、二人ともしばらく好調を持続した後、一進一退の展開となり、やや負けがこんで二人とも45ドルに戻った時点で一旦頭を冷やすために中断。
3倍にまで増やした予算を使って次はルーレットで勝負(ミニマムベット10ドル)。最初は二人とも縦一列に賭けて見事に当たり10ドルが3倍の30ドルに。僕は次に思い切って4つの数字にまたがって賭ける9倍勝負。これがなんと大当たり。ビギナーズラックは恐ろしい。10ドルが90ドルになる。それから少し負けて自分の持ち金が120ドルになった段階で席を立つ。妻はもう一勝負するというので後ろから見守るが、しぶとく縦一列の3倍をゲット。結局妻も持ち金を100ドルにして終了。二人合わせて30ドルが220ドルに増えたことになる。30分足らずで200ドル。カジノにはまる人の気持ちもなんとなく分かるような気がする。
最初に設定した目標に達したので、ここで止めるべきかどうか暫し相談。やっぱり止めよう、いやもう一勝負、思い切ってこの220ドルを一点賭けの36倍(約80万円)か、などといろいろ揉めた後、結局は初志貫徹で退散することに。確かに大金は魅力だが、それを考え始めるとキリがないし、2人とも勝って気分良く終わるのも悪くないという結論に達した。200ドルという成果も上々である。
ラスベガスは全てがゴージャスで、刹那的な魅力に溢れているが、僕たちのような庶民が長居する場所ではない。軽く気分だけ味わってラスベガスを後にする。次はいよいよ西海岸である。
Sedona (AZ)
ここセドナからは、これまでの歴史探訪とうって変わり、大自然とエンターテイメントを満喫する旅となる。セドナは日本のガイドブックにはあまり載っていないのだが、アメリカ人には人気の観光地らしく、ハノーバーでも複数の人に勧められたので今回のルートに加えている。
セドナには赤茶色の岩が切り立ってできたモニュメントのようなものが点在している。赤岩と言うとセドナよりも北部に位置するモニュメントバレーが最も有名らしいのだが、モニュメントバレーに立ち寄ると西海岸で予約しているいくつかの重要なポイントに間に合わないため、今回は断念。しかしセドナも十分に見応えがあった。
まずはカセドラルロックと呼ばれる最も有名な岩山に向かう。この岩がゴシック建築の教会のような形をしていることからそう名づけられている。ビジターセンターで「比較的軽めのトレイル」ということで紹介されたのが、実際はこの岩の麓をめがけてひたすら登っていくので、トレイルというよりは登山に近い。途中から勾配がきつくなってくると、突然妻が「怖い。もう降りる」と早くも白旗。僕も高いところはあまり好きではないのだが、まだまだ行けそうなところで引き返さざるを得なくなる。なぜか半泣き状態の妻が後ろから尻もちをつきながら恐る恐る降りてくる。
とは言え、ここまで来てボーテックス(トレイルのゴール地点にあり、地上の磁力が集まって人間を癒してくれると言われるポイント)を見られないのも悔しいので、一旦妻を平地の日陰に送り届けた後、一人で再度トレイルに挑戦。しかしこの登りはなかなかの難敵で、妻が引き返したポイントの先から急激に勾配がきつくなる。足場を確認しつつ、手をついて登らなければいけないほどで、さながら簡易版ロッククライミングといった雰囲気である。
最難関のポイントはどうやら通り抜け、見晴らしのいい場所までたどり着いたのだが、どうやら先はまだ長い様子。今日は幸か不幸か快晴であり、真昼間のアリゾナで、日陰もない岩山を登っていくのは思った以上に体力を消耗する。帰り道や置いてきた妻のことも考え、残念ではあるがここで引き返すことにする。それでも登る度に眼前に大きく迫ってくるカセドラルロックの迫力と美しさは一見に値するものであった。
街に戻り、涼しいカフェでキャラメル・マキアートを飲みながら一息ついた後、今度は芸術の村と言われるトラキパキを散策する。しかしトラキパキはサンタフェとは全く違い、やたら「サイキック」という看板が目に付く。どうやらボーテックスという癒しの場所にあやかって、占い師の商売が盛んになっているようだ。通りに並ぶショップも宗教がかったものばかり(ジュエリー、水晶、各種神様の置き物など)で、どうも眉唾ものである。アメリカ人も意外にこういうものが好きなのだ。
その後、レッドロック・クロッシングという別のポイントにも行ってみたのだが、それほど変わり映えしない光景と、二人の疲労度を考え、早々にホテルに戻る。それにしてもここは車が多い。セドナの周辺は日光いろは坂のようにくねくねとした山道が片側一車線で延々と続いており、見た目のマイル数以上に移動に時間がかかる。またセドナの中心部ではひっきりなしに両方向から車が行き交っており、横道から本線に入るのにかなり苦労するほどである。これには本当に閉口した。
セドナには赤茶色の岩が切り立ってできたモニュメントのようなものが点在している。赤岩と言うとセドナよりも北部に位置するモニュメントバレーが最も有名らしいのだが、モニュメントバレーに立ち寄ると西海岸で予約しているいくつかの重要なポイントに間に合わないため、今回は断念。しかしセドナも十分に見応えがあった。
まずはカセドラルロックと呼ばれる最も有名な岩山に向かう。この岩がゴシック建築の教会のような形をしていることからそう名づけられている。ビジターセンターで「比較的軽めのトレイル」ということで紹介されたのが、実際はこの岩の麓をめがけてひたすら登っていくので、トレイルというよりは登山に近い。途中から勾配がきつくなってくると、突然妻が「怖い。もう降りる」と早くも白旗。僕も高いところはあまり好きではないのだが、まだまだ行けそうなところで引き返さざるを得なくなる。なぜか半泣き状態の妻が後ろから尻もちをつきながら恐る恐る降りてくる。
とは言え、ここまで来てボーテックス(トレイルのゴール地点にあり、地上の磁力が集まって人間を癒してくれると言われるポイント)を見られないのも悔しいので、一旦妻を平地の日陰に送り届けた後、一人で再度トレイルに挑戦。しかしこの登りはなかなかの難敵で、妻が引き返したポイントの先から急激に勾配がきつくなる。足場を確認しつつ、手をついて登らなければいけないほどで、さながら簡易版ロッククライミングといった雰囲気である。
最難関のポイントはどうやら通り抜け、見晴らしのいい場所までたどり着いたのだが、どうやら先はまだ長い様子。今日は幸か不幸か快晴であり、真昼間のアリゾナで、日陰もない岩山を登っていくのは思った以上に体力を消耗する。帰り道や置いてきた妻のことも考え、残念ではあるがここで引き返すことにする。それでも登る度に眼前に大きく迫ってくるカセドラルロックの迫力と美しさは一見に値するものであった。
街に戻り、涼しいカフェでキャラメル・マキアートを飲みながら一息ついた後、今度は芸術の村と言われるトラキパキを散策する。しかしトラキパキはサンタフェとは全く違い、やたら「サイキック」という看板が目に付く。どうやらボーテックスという癒しの場所にあやかって、占い師の商売が盛んになっているようだ。通りに並ぶショップも宗教がかったものばかり(ジュエリー、水晶、各種神様の置き物など)で、どうも眉唾ものである。アメリカ人も意外にこういうものが好きなのだ。
その後、レッドロック・クロッシングという別のポイントにも行ってみたのだが、それほど変わり映えしない光景と、二人の疲労度を考え、早々にホテルに戻る。それにしてもここは車が多い。セドナの周辺は日光いろは坂のようにくねくねとした山道が片側一車線で延々と続いており、見た目のマイル数以上に移動に時間がかかる。またセドナの中心部ではひっきりなしに両方向から車が行き交っており、横道から本線に入るのにかなり苦労するほどである。これには本当に閉口した。
Monday, June 28, 2004
Forrest Gump
今回の旅では「なぜ」という知的好奇心を満たすことが一つの目的であり、事前に調べたことや自分の目で見たもの、耳で聞いたものを補完するために、その都市や出来事をモチーフにした映画(DVD)を時々購入して夜ホテルで鑑賞している。
アリゾナ州のセドナに到着した今日(6/25)は、漸くサンタフェのボーダースで見つけたフォレスト・ガンプを観る(なぜかアトランタからこれまでなかなか手に入らなかった)。フォレスト・ガンプは1994年、今から10年前の作品である。フォレスト・ガンプを観ようと思った訳は、うる覚えながら、この映画が米国史上における重大な事件、象徴的な都市をトム・ハンクスとともに見て回るものだったからである。
実際に観たフォレスト・ガンプ(10年振り2度目)は、今回の旅で僕が関心を持ち、体験してきたものと完全にオーバーラップしていたため、見終わってからも暫く興奮が冷めやらなかった。まずこの映画はなんとアラバマ州が舞台の中心となっていた。10年前は「アラバマってどこだ」くらいの認識しか持っていなかっただろう。この事実はほんの一例に過ぎない。10年前は「そんなに騒がれてるほど面白い映画じゃなかったな」という感想を持ったような気がする。つまりフォレスト・ガンプが連れて行ってくれる世界は、米国の近代史そのものであり、その時代背景の知識なくして、面白いと思える訳がなかったのである。
公民権運動に関する部分ではジョージ・ウォレス知事が登場、黒人学生が白人の大学に入ることを徹底的に拒んだものの、JFKが州兵を米国政府の管理下に置いたため、渋々入学を認めたシーンにフォレストが遭遇する。フォレストは正面玄関に入っていく黒人学生が落とした本を拾い上げ「これ落としましたよ」と後ろから声をかける。この少し前にフォレストが人だかりを見て「いったい何事?」と白人学生に質問したのだが、その学生は「あの黒人野郎どもが俺たちと同じ大学に入るとか言ってやがんだよ」と答えるシーンがある。当時のアラバマ市民としては珍しくない反応だろう。それを聞いてなお、フォレストが本を拾い上げたという点に、ロバート・ゼメキス監督の明快なメッセージが込められている。
人種問題に関してもう一つ特筆すべきなのは、フォレストがベトナム戦争の場面で、同じアラバマ出身の黒人(ババ)と親友になる点だろう。一般にはあまり知られていないような気がするが、ベトナム戦争は白人と黒人が人種の壁を越え、同じ目的を果たすために初めて手を取りあった稀有な出来事という側面をもっている。アトランタのキング牧師記念館で、そのことに触れた展示を目にしたが、それによると、戦争が終わった後は、彼らはまたそれぞれ自分たちのコミュニティに戻って行ったそうだ。黒人兵士たちにとってのベトナム戦争は大いなる悲劇であると同時に、戦友として白人兵士と友情を育んだ一瞬の奇跡だったのかもしれない。
しかし僕にとって最も衝撃的だったのは、フォレストの名前が、南北戦争における南軍の英雄、ネイサン・フォレストにちなんで名づけられていたという事実である。この人物は南北戦争の英雄という文脈で語られる限り、一見問題はなさそうなのだが、実はKKK創設者の一人というもう一つの顔を持っている。僕が先日立ち寄ったセルマでは、2000年に黒人市長が初めて誕生したのだが、その直後、白人コミュニティによってこのフォレストの銅像が街の一角に建てられたという背筋が寒くなるような出来事が起こっている。つまりネイサン・フォレストという人物は、白人至上主義の象徴でもあるのだ。フォレスト・ガンプの母親は、こういう馬鹿げたことをしないようにという戒めの意味で、彼の息子をそう名づけたと言う。
少し脱線するが、セルマのオールド・ディーポ博物館で白人の老人に館内を案内してもらった際に、このネイサン・フォレストの肖像画が飾られてあることに気がついた。僕はあえて知らないふりをして「この人はどんな人ですか」と尋ねたのだが、老人は「彼は南北戦争の英雄で素晴らしい男だ。とくかくグレイトな男なんだ」と不自然なほど褒めちぎっていた。彼がどういう主義主張を持ち、なぜそういうことを言ったのか深く追求しなかったのだが、フォレスト・ガンプを観て、彼の顔と言葉がふと思い出された。その場で彼の真意を聞いておかなかったことを少しだけ後悔した。
フォレスト・ガンプの話に戻ると、彼がアメフト全米代表としての活躍、ベトナム戦争における功績、卓球親善外交によって、ケネディ大統領、ジョンソン大統領、ニクソン大統領からそれぞれホワイトハウスで労いを受ける場面ではクスリとさせられる。またエルビス・プレスリー、ジョン・レノンといった時代を代表するスターたちと遭遇するシーンは単純に面白い。ジョン・レノンがテレビの対談で「イマジン」の歌詞を引用するところは爆笑ものである。
そのほかにもJFKやロバート・ケネディの暗殺、フォード大統領やレーガン大統領、ジョージ・ウォレスの暗殺未遂事件に触れた部分もあり、いかにこの国の歴史が暴力で彩られてきたかが分かる。またフォレストがリンカーン・メモリアルの反戦集会でスピーチし、再会した幼なじみとリフレクティング・プールの中で抱き合う一つのクライマックスシーンも、つい先日この目で見てきた場所だけにとても臨場感があった。そんな訳で、フォレスト・ガンプは10年前に僕が観た映画とは全く異なるものであり、生涯忘れることのできない強烈な印象を残してくれた。
この映画はまた、僕の中でJFK以降、カーター以前が抜け落ちていることに気づかせてくれた。つまりジョンソン、ニクソン、フォードという三人の大統領の時代である。特にベトナム戦争やヒッピー文化の興隆、ウォーターゲート事件、フォード大統領暗殺未遂事件に至る流れ、背景については、機会を改めて少し掘り下げてみたいと思う。
アリゾナ州のセドナに到着した今日(6/25)は、漸くサンタフェのボーダースで見つけたフォレスト・ガンプを観る(なぜかアトランタからこれまでなかなか手に入らなかった)。フォレスト・ガンプは1994年、今から10年前の作品である。フォレスト・ガンプを観ようと思った訳は、うる覚えながら、この映画が米国史上における重大な事件、象徴的な都市をトム・ハンクスとともに見て回るものだったからである。
実際に観たフォレスト・ガンプ(10年振り2度目)は、今回の旅で僕が関心を持ち、体験してきたものと完全にオーバーラップしていたため、見終わってからも暫く興奮が冷めやらなかった。まずこの映画はなんとアラバマ州が舞台の中心となっていた。10年前は「アラバマってどこだ」くらいの認識しか持っていなかっただろう。この事実はほんの一例に過ぎない。10年前は「そんなに騒がれてるほど面白い映画じゃなかったな」という感想を持ったような気がする。つまりフォレスト・ガンプが連れて行ってくれる世界は、米国の近代史そのものであり、その時代背景の知識なくして、面白いと思える訳がなかったのである。
公民権運動に関する部分ではジョージ・ウォレス知事が登場、黒人学生が白人の大学に入ることを徹底的に拒んだものの、JFKが州兵を米国政府の管理下に置いたため、渋々入学を認めたシーンにフォレストが遭遇する。フォレストは正面玄関に入っていく黒人学生が落とした本を拾い上げ「これ落としましたよ」と後ろから声をかける。この少し前にフォレストが人だかりを見て「いったい何事?」と白人学生に質問したのだが、その学生は「あの黒人野郎どもが俺たちと同じ大学に入るとか言ってやがんだよ」と答えるシーンがある。当時のアラバマ市民としては珍しくない反応だろう。それを聞いてなお、フォレストが本を拾い上げたという点に、ロバート・ゼメキス監督の明快なメッセージが込められている。
人種問題に関してもう一つ特筆すべきなのは、フォレストがベトナム戦争の場面で、同じアラバマ出身の黒人(ババ)と親友になる点だろう。一般にはあまり知られていないような気がするが、ベトナム戦争は白人と黒人が人種の壁を越え、同じ目的を果たすために初めて手を取りあった稀有な出来事という側面をもっている。アトランタのキング牧師記念館で、そのことに触れた展示を目にしたが、それによると、戦争が終わった後は、彼らはまたそれぞれ自分たちのコミュニティに戻って行ったそうだ。黒人兵士たちにとってのベトナム戦争は大いなる悲劇であると同時に、戦友として白人兵士と友情を育んだ一瞬の奇跡だったのかもしれない。
しかし僕にとって最も衝撃的だったのは、フォレストの名前が、南北戦争における南軍の英雄、ネイサン・フォレストにちなんで名づけられていたという事実である。この人物は南北戦争の英雄という文脈で語られる限り、一見問題はなさそうなのだが、実はKKK創設者の一人というもう一つの顔を持っている。僕が先日立ち寄ったセルマでは、2000年に黒人市長が初めて誕生したのだが、その直後、白人コミュニティによってこのフォレストの銅像が街の一角に建てられたという背筋が寒くなるような出来事が起こっている。つまりネイサン・フォレストという人物は、白人至上主義の象徴でもあるのだ。フォレスト・ガンプの母親は、こういう馬鹿げたことをしないようにという戒めの意味で、彼の息子をそう名づけたと言う。
少し脱線するが、セルマのオールド・ディーポ博物館で白人の老人に館内を案内してもらった際に、このネイサン・フォレストの肖像画が飾られてあることに気がついた。僕はあえて知らないふりをして「この人はどんな人ですか」と尋ねたのだが、老人は「彼は南北戦争の英雄で素晴らしい男だ。とくかくグレイトな男なんだ」と不自然なほど褒めちぎっていた。彼がどういう主義主張を持ち、なぜそういうことを言ったのか深く追求しなかったのだが、フォレスト・ガンプを観て、彼の顔と言葉がふと思い出された。その場で彼の真意を聞いておかなかったことを少しだけ後悔した。
フォレスト・ガンプの話に戻ると、彼がアメフト全米代表としての活躍、ベトナム戦争における功績、卓球親善外交によって、ケネディ大統領、ジョンソン大統領、ニクソン大統領からそれぞれホワイトハウスで労いを受ける場面ではクスリとさせられる。またエルビス・プレスリー、ジョン・レノンといった時代を代表するスターたちと遭遇するシーンは単純に面白い。ジョン・レノンがテレビの対談で「イマジン」の歌詞を引用するところは爆笑ものである。
そのほかにもJFKやロバート・ケネディの暗殺、フォード大統領やレーガン大統領、ジョージ・ウォレスの暗殺未遂事件に触れた部分もあり、いかにこの国の歴史が暴力で彩られてきたかが分かる。またフォレストがリンカーン・メモリアルの反戦集会でスピーチし、再会した幼なじみとリフレクティング・プールの中で抱き合う一つのクライマックスシーンも、つい先日この目で見てきた場所だけにとても臨場感があった。そんな訳で、フォレスト・ガンプは10年前に僕が観た映画とは全く異なるものであり、生涯忘れることのできない強烈な印象を残してくれた。
この映画はまた、僕の中でJFK以降、カーター以前が抜け落ちていることに気づかせてくれた。つまりジョンソン、ニクソン、フォードという三人の大統領の時代である。特にベトナム戦争やヒッピー文化の興隆、ウォーターゲート事件、フォード大統領暗殺未遂事件に至る流れ、背景については、機会を改めて少し掘り下げてみたいと思う。
Friday, June 25, 2004
Santa Fe (NM)
セドナ(アリゾナ州)への経由地として本来はアルバカーキ(ニューメキシコ州)に泊まるはずだったのだが、どうやらサンタフェの方が見るべきものがありそうなので、若干遠回りながらもサンタフェを経由地とする。
「サンタフェ」と言えば、昔騒がれた宮沢りえの写真集が真っ先に思い浮かぶ。何となく赤茶けた岩や大地が広がっているようなイメージしか残っていなかったが、実際訪れたサンタフェは絵本から飛び出したような美しい街だった。ベージュで統一された建物はスペイン統治時代の名残りで、全て土で作られているそうだ。
連日の長時間ドライブの末、サンタフェに漸くたどり着いたのは午後6時前だったのだが、まだ辺りは明るいので、フロントで親切に説明してもらった地図と情報を頼りに、キャニオンロードへ向かう。キャニオンロードには絵画や工芸品のギャラリーが延々と軒を連ねている。かなり値がはるものばかりなので、僕たちにはとても手が出ない。観光客も圧倒的に年配のご夫婦が多いようだ。
可愛らしい雑貨を売っている店のおじさんに「これみんな自分で作ったの?」と聞くと「まさか。この辺の絵の何枚かは妻が描いたものだけど、あとは南西部のアーティストが作ったものばかりだよ。僕の仕事は専ら電話番」とおどける。「サンタフェがこんなにアーティスティックな街だとは知らなかった。もっと岩山に囲まれた大自然かと思ってた」と言うと「この街には市役所とアートしかないよ」という返事が返って来るくらい芸術で有名な街らしい。中にはピカソの絵を5万ドルで売っている店もあったが、この店ではほとんど無名のアーティストによる作品ばかりを扱っている。サンタフェはさしずめ新人アーティストの登竜門といったところだろうか。
こんなに街全体が美しく、しかもアートに溢れたサンタフェは、かなり日本人受けしそうなのだが、なぜかガイドにはあまり取り上げられていない。やはりここまで来る交通手段が限られているからだろうか。カリフォルニアを拠点にした場合、ラスベガス、グランドキャニオンまで足は伸ばせても、サンタフェはまだ遥か彼方である。周辺にも特に観光ポイントはないため、本格的に芸術に関心を持った人でなければ初めから諦めてしまうだろう。知る人ぞ知る隠れ家を見つけたような、ちょっと得をした気分になった。
「サンタフェ」と言えば、昔騒がれた宮沢りえの写真集が真っ先に思い浮かぶ。何となく赤茶けた岩や大地が広がっているようなイメージしか残っていなかったが、実際訪れたサンタフェは絵本から飛び出したような美しい街だった。ベージュで統一された建物はスペイン統治時代の名残りで、全て土で作られているそうだ。
連日の長時間ドライブの末、サンタフェに漸くたどり着いたのは午後6時前だったのだが、まだ辺りは明るいので、フロントで親切に説明してもらった地図と情報を頼りに、キャニオンロードへ向かう。キャニオンロードには絵画や工芸品のギャラリーが延々と軒を連ねている。かなり値がはるものばかりなので、僕たちにはとても手が出ない。観光客も圧倒的に年配のご夫婦が多いようだ。
可愛らしい雑貨を売っている店のおじさんに「これみんな自分で作ったの?」と聞くと「まさか。この辺の絵の何枚かは妻が描いたものだけど、あとは南西部のアーティストが作ったものばかりだよ。僕の仕事は専ら電話番」とおどける。「サンタフェがこんなにアーティスティックな街だとは知らなかった。もっと岩山に囲まれた大自然かと思ってた」と言うと「この街には市役所とアートしかないよ」という返事が返って来るくらい芸術で有名な街らしい。中にはピカソの絵を5万ドルで売っている店もあったが、この店ではほとんど無名のアーティストによる作品ばかりを扱っている。サンタフェはさしずめ新人アーティストの登竜門といったところだろうか。
こんなに街全体が美しく、しかもアートに溢れたサンタフェは、かなり日本人受けしそうなのだが、なぜかガイドにはあまり取り上げられていない。やはりここまで来る交通手段が限られているからだろうか。カリフォルニアを拠点にした場合、ラスベガス、グランドキャニオンまで足は伸ばせても、サンタフェはまだ遥か彼方である。周辺にも特に観光ポイントはないため、本格的に芸術に関心を持った人でなければ初めから諦めてしまうだろう。知る人ぞ知る隠れ家を見つけたような、ちょっと得をした気分になった。
Amarillo (TX)
二人で交互に運転しても一日に7~8時間が限界である。しかも米国一周という長丁場なので、連日移動しなければならないような場合は、特に見るべきものがなくても経由地で宿をとる必要がある。
アマリロはまさにそのような都市である。ウェブで調べたところ「カウボーイに会える町」という明るい表現もあったのだが、実際のアマリロはゴーストタウンという名が相応しい。ホテルでもらった地図を頼りにやっと探し当てたショッピングモールはまるごとつぶれていた。通り沿いの店も軒並みつぶれていて、営業している店を探すのが一苦労である。「なんだこの町は」という言葉しか出て来ない。なぜ、どのような経緯でこうなったのか。米国には他にどのくらいこういう町があるのだろうか。
おりしもブッシュ大統領のCMがテレビで流れ始めた。夫人と並んだ大統領は柔和な笑顔で「私は米国の未来を楽観視しています。なぜなら国民の皆さんが素晴らしいからです」と切り出す。かなり気味が悪い。「経済は過去10ヶ月成長を続けています。雇用も順調に回復しています。」その他いくつかの数値データをあげた後、画面はジョン・ケリーのアップになり、ブッシュが次の言葉で締めくくる。「そんな中でこの国が大不況にあると言う人がいます。悲観主義が雇用を生み出したことはかつてありません」この誹謗中傷キャンペーンだけはどうにも好きになれない。
前夜、テレビで「アマリロで野球ボール大の雹が降った」というニュースを見た。その「野球ボール大」の雹と、車の窓が粉々に割れている映像を見て「一日着くのが早かったら」と思うとぞっとした。
アマリロはまさにそのような都市である。ウェブで調べたところ「カウボーイに会える町」という明るい表現もあったのだが、実際のアマリロはゴーストタウンという名が相応しい。ホテルでもらった地図を頼りにやっと探し当てたショッピングモールはまるごとつぶれていた。通り沿いの店も軒並みつぶれていて、営業している店を探すのが一苦労である。「なんだこの町は」という言葉しか出て来ない。なぜ、どのような経緯でこうなったのか。米国には他にどのくらいこういう町があるのだろうか。
おりしもブッシュ大統領のCMがテレビで流れ始めた。夫人と並んだ大統領は柔和な笑顔で「私は米国の未来を楽観視しています。なぜなら国民の皆さんが素晴らしいからです」と切り出す。かなり気味が悪い。「経済は過去10ヶ月成長を続けています。雇用も順調に回復しています。」その他いくつかの数値データをあげた後、画面はジョン・ケリーのアップになり、ブッシュが次の言葉で締めくくる。「そんな中でこの国が大不況にあると言う人がいます。悲観主義が雇用を生み出したことはかつてありません」この誹謗中傷キャンペーンだけはどうにも好きになれない。
前夜、テレビで「アマリロで野球ボール大の雹が降った」というニュースを見た。その「野球ボール大」の雹と、車の窓が粉々に割れている映像を見て「一日着くのが早かったら」と思うとぞっとした。
Dallas (TX)
ダラスは全米第二位のコンベンション・シティらしく、ビジネスの街といった趣きである。ただ思っていたほど大きくはなく、メインストリートを少し外れれば錆びれた中堅都市という雰囲気を醸し出している。僕にとってダラスは、アメフトで名を馳せたダラス・カウボーイズの地元、JFKが暗殺された都市という程度の認識しかなかったが、事実JFKの事件は全世界にダラスの名を轟かせる要因となったようだ。
ダラスの唯一の観光ポイントは、犯人として逮捕されたオズワルドが狙撃した現場(Sixth Floor)である。Sixth Floorは現在は博物館として一般に公開されている。入り口で解説テープを借り、エレベーターで6階へ昇る。JFKの功績についてはボストン郊外のJFKライブラリーの方が詳しく、展示も充実しているが、ここSixth FloorはJFKがテキサスにやって来て、運命の時を迎えるまで、そしてその後数日の内外の反響に焦点をあてている。世界各地でJFK追悼の儀式が行われ、日本でも喪服姿の女性たちが列をなして焼香をあげている映像が流れていた。
ダラスは当時非常に保守的な土地柄で、非WASPであるJFKを毛嫌いする人も多く、側近は当初このダラス遊説に異を唱えたそうだが、結局JFKはこの地に足を踏み入れてしまう。しかし当初の予想とは裏腹に、沿道を埋めた市民の熱狂的な歓待を受け、オープンカーに同乗していたテキサス州知事夫人が振り返り「ダラスの街があなたを愛していないなんて言わせませんよ」と言ったそうだ。悲劇はその直後に起きる。
展示をひと通り見て回り、オズワルドが狙撃した6階の窓からElm Streetを眼下に眺めつつ、改めて不可解な点が多いことに首をひねる。オズワルドの犯行の動機(本人は容疑を否定)もさることながら、オズワルドが狙撃後、逮捕されるまでの時間が早すぎる(彼は1時間程度であっけなく逮捕されている)。ライフルを現場に置いて逃げたので、少なくとももう少し長く逃げ延びることはできたはずだ。実際彼は犯行直後、2階で警察官に質問を受けているが、そのビルで勤務する社員であったためにすぐに解放されている。
その後オズワルドは刑務所へ移送される途中(しかもテレビの生中継中)、警察署の地下でジャック・ルビーという男に至近距離から心臓に銃弾を受け、殺害される。ジャック・ルビーの犯行動機は「JKFの暗殺に強い怒りを覚えた」というものである。いずれも単独犯による情動的な犯行という結論。他にも不可解な要素をあげればきりがないが、残念ながら僕たちに真相を知る術はない。2039年に調査報告資料が公開されることになっているが、そのとき僕はまだ生きていて、その歴史的瞬間を目撃することができるだろうか。その資料にはどれだけの真実と衝撃が含まれているだろうか。
夜はダラス郊外にあるボールパーク・イン・アーリントンで野球観戦。対戦相手はイチローのシアトル・マリナーズである。ダラスは最初から旅のルート上にのっていたのだが、旅行を始めてからMLBのウェブサイトをチェックしたところ、ちょうどマリナーズがやって来ることを発見し、すぐにオンラインでチケットを予約。座席はイチローの守備位置にできるだけ近い一塁側内野席の外野寄りを押さえた。
オンラインで購入したチケットは、当日"Will Call"という窓口で身分証明書を提示すればその場で渡してもらえるので、旅の途中でも気軽に予約することができる。球場周辺に巨大な駐車場が完備しているのも嬉しい。それから日本のプロ野球と大きく違う点は、家族連れや小さな子供が本当にたくさん見に来ていることだろう。野球を見ること自体が唯一の目的ではなく、まさに「ボールパーク」に遊びに来ているという感覚である。
初めて訪れたアーリントン球場は、観客席からフィールドが異常に近く、フィールドと隔てるネットもないので、球場がとても狭く見える。文字通り目の前でメジャーのスター選手が走ったり、キャッチボールをしている。僕たちの席もまるで一塁線上に座っていると錯覚してしまうほど近い。
試合中はライト前やライト線に際どい打球が多く飛んだので、その度に立ち上がってフェンスから身を乗り出す。イチローの間一髪のスライディングキャッチには地元ファンからもため息が出ていたが、一塁線を抜けるヒットにも素早く反応し、ホームに矢のような返球を二度ほど見せてくれた。身を乗り出した僕の耳元をイチローの送球が音を立てて飛んでいく迫力には妻と二人で「今の見た?」と大興奮してしまった。バッティングの方は4打数1安打(全部ゴロ)とあまり芳しくなかった。どうもここにきてまた調子を落としているような気がする。それでも守備で十分観客を楽しませてくれるのがイチローだった。球場に来るとそのことがよく分かる。
試合は10-2でレンジャースが快勝。ファンも満足気な表情で球場を後にする。テキサスのキャップをかぶって(タックではありません)、地元ファンと一緒にホームチームを応援するのは本当に楽しい。またニューヨークやボストンと違って座席に余裕があり、ファンも比較的おとなしく応援しているので試合に集中することができる。
レンジャースは昨年Aロッドをヤンキースに放出、全国区の有名な選手と言えばソリアーノくらいなのだが、それでも現在ア・リーグ西地区の首位に立っている。近くのおじさんと子供に好きな選手を聞いたところ、ブレイロック、テシーラという名前が返って来る。この二人の他にもマイケル・ヤング、バラハスといった選手の鋭いスイング、溌剌としたプレーぶりが目立っていた。若く伸び盛りで、とても魅力的なチームという印象をもった。25ドルでこれだけ内容の濃いエンターテイメントを堪能できるのは本当にお得感が高い。
ダラスの唯一の観光ポイントは、犯人として逮捕されたオズワルドが狙撃した現場(Sixth Floor)である。Sixth Floorは現在は博物館として一般に公開されている。入り口で解説テープを借り、エレベーターで6階へ昇る。JFKの功績についてはボストン郊外のJFKライブラリーの方が詳しく、展示も充実しているが、ここSixth FloorはJFKがテキサスにやって来て、運命の時を迎えるまで、そしてその後数日の内外の反響に焦点をあてている。世界各地でJFK追悼の儀式が行われ、日本でも喪服姿の女性たちが列をなして焼香をあげている映像が流れていた。
ダラスは当時非常に保守的な土地柄で、非WASPであるJFKを毛嫌いする人も多く、側近は当初このダラス遊説に異を唱えたそうだが、結局JFKはこの地に足を踏み入れてしまう。しかし当初の予想とは裏腹に、沿道を埋めた市民の熱狂的な歓待を受け、オープンカーに同乗していたテキサス州知事夫人が振り返り「ダラスの街があなたを愛していないなんて言わせませんよ」と言ったそうだ。悲劇はその直後に起きる。
展示をひと通り見て回り、オズワルドが狙撃した6階の窓からElm Streetを眼下に眺めつつ、改めて不可解な点が多いことに首をひねる。オズワルドの犯行の動機(本人は容疑を否定)もさることながら、オズワルドが狙撃後、逮捕されるまでの時間が早すぎる(彼は1時間程度であっけなく逮捕されている)。ライフルを現場に置いて逃げたので、少なくとももう少し長く逃げ延びることはできたはずだ。実際彼は犯行直後、2階で警察官に質問を受けているが、そのビルで勤務する社員であったためにすぐに解放されている。
その後オズワルドは刑務所へ移送される途中(しかもテレビの生中継中)、警察署の地下でジャック・ルビーという男に至近距離から心臓に銃弾を受け、殺害される。ジャック・ルビーの犯行動機は「JKFの暗殺に強い怒りを覚えた」というものである。いずれも単独犯による情動的な犯行という結論。他にも不可解な要素をあげればきりがないが、残念ながら僕たちに真相を知る術はない。2039年に調査報告資料が公開されることになっているが、そのとき僕はまだ生きていて、その歴史的瞬間を目撃することができるだろうか。その資料にはどれだけの真実と衝撃が含まれているだろうか。
夜はダラス郊外にあるボールパーク・イン・アーリントンで野球観戦。対戦相手はイチローのシアトル・マリナーズである。ダラスは最初から旅のルート上にのっていたのだが、旅行を始めてからMLBのウェブサイトをチェックしたところ、ちょうどマリナーズがやって来ることを発見し、すぐにオンラインでチケットを予約。座席はイチローの守備位置にできるだけ近い一塁側内野席の外野寄りを押さえた。
オンラインで購入したチケットは、当日"Will Call"という窓口で身分証明書を提示すればその場で渡してもらえるので、旅の途中でも気軽に予約することができる。球場周辺に巨大な駐車場が完備しているのも嬉しい。それから日本のプロ野球と大きく違う点は、家族連れや小さな子供が本当にたくさん見に来ていることだろう。野球を見ること自体が唯一の目的ではなく、まさに「ボールパーク」に遊びに来ているという感覚である。
初めて訪れたアーリントン球場は、観客席からフィールドが異常に近く、フィールドと隔てるネットもないので、球場がとても狭く見える。文字通り目の前でメジャーのスター選手が走ったり、キャッチボールをしている。僕たちの席もまるで一塁線上に座っていると錯覚してしまうほど近い。
試合中はライト前やライト線に際どい打球が多く飛んだので、その度に立ち上がってフェンスから身を乗り出す。イチローの間一髪のスライディングキャッチには地元ファンからもため息が出ていたが、一塁線を抜けるヒットにも素早く反応し、ホームに矢のような返球を二度ほど見せてくれた。身を乗り出した僕の耳元をイチローの送球が音を立てて飛んでいく迫力には妻と二人で「今の見た?」と大興奮してしまった。バッティングの方は4打数1安打(全部ゴロ)とあまり芳しくなかった。どうもここにきてまた調子を落としているような気がする。それでも守備で十分観客を楽しませてくれるのがイチローだった。球場に来るとそのことがよく分かる。
試合は10-2でレンジャースが快勝。ファンも満足気な表情で球場を後にする。テキサスのキャップをかぶって(タックではありません)、地元ファンと一緒にホームチームを応援するのは本当に楽しい。またニューヨークやボストンと違って座席に余裕があり、ファンも比較的おとなしく応援しているので試合に集中することができる。
レンジャースは昨年Aロッドをヤンキースに放出、全国区の有名な選手と言えばソリアーノくらいなのだが、それでも現在ア・リーグ西地区の首位に立っている。近くのおじさんと子供に好きな選手を聞いたところ、ブレイロック、テシーラという名前が返って来る。この二人の他にもマイケル・ヤング、バラハスといった選手の鋭いスイング、溌剌としたプレーぶりが目立っていた。若く伸び盛りで、とても魅力的なチームという印象をもった。25ドルでこれだけ内容の濃いエンターテイメントを堪能できるのは本当にお得感が高い。
Tuesday, June 22, 2004
New Orleans (LA)
ジャズ発祥の地として何度となく耳にしたことのあるニューオリンズ(ルイジアナ州)に足を踏み入れる。最も人気のあるバーボンストリートを中心とするフレンチクウォーターは想像していたよりも狭く、ごみごみとしていて、お世辞にも綺麗とは言えない。通りのあちこちで管楽器を吹いている人がいたり、店の中からも大音量で音楽が流れていて、本場らしさを感じさせる一方、バーに紛れてストリップ劇場も軒を連ねており、何でもありの歓楽街といった感じである。
到着したのが土曜日の夕方とあって、街も次第に賑やかになってくる。僕たちは長時間ドライブした後だったので早々とホテルに引き上げたのだが、ホテル自体が騒がしく、一体何時までこの大音量の演奏が続くのだろうというくらいプライバシーのない街である。この種の音楽に趣味のある人は興奮して大変なのかもしれないが、残念ながら僕にはあまり分からない。
翌日はブラブラとフレンチクウォーターを散歩がてら、ニューオリンズの歴史を扱った蝋人形館やブードゥー教博物館に立ち寄る。前者はなかなか面白かったが、後者は全くの期待外れ。ともかく、この辺りは元々スペイン領、のちにフランス領となり、欧州での戦争で資金が必要となったナポレオンが米国に売り渡したことで米国に統合されたという流れはつかむことができた。だから街のあちこちにフランス統治時代の名残りがあり、街の名前もフレンチクウォーターなのである。
アンドリュー・ジャクソン将軍が海賊のラフィットと手を結んで、英国軍をニューオリンズの戦いで撃退したのもこの場所。実はこの戦いの時点で既に英米戦争は終結していたそうなのだが(ニューオリンズまで連絡が間に合わなかったとのこと)、もしここで上陸を許していたら英米戦争もすんなり終わらなかったという点でジャクソン将軍の功績は大きく取り上げられている。実際彼は小学校程度の学歴しか持っていないかったにも関わらず、その後第7代米国大統領に選ばれている。
それから妻が行きたいと言うので、Café du Mondeというベニエ(穴のない四角いドーナツ)発祥のカフェで一休み。Café du Mondeは日本にも進出しているということで、どんな洒落た店だろうと期待して行ったのだが、東南アジアの大衆食堂といった雰囲気の店内には全く「カフェ」の面影はない。「この店がどうして日本で人気があるんだろう」と考え込んでしまう。おそらく仕掛け人がフランスとニューオリンズという響きを肯定的に宣伝し、日本流にアレンジしたのだろう。
フレンチクウォーターの西端から出発しているSt. Charles Streetcarという市電に乗って片道40分の散策に出かける。この市電は「欲望という名の電車」にも登場した年代ものだそうだ。フレンチクウォーターとはうって変わって広々とした通りの両脇に歴史を感じさせるヨーロッパ風の邸宅が延々と並んでいる。一体どんな人がこんな立派な邸宅に住んでいるんだろう。
夜はニューオリンズ名物のケイジャン料理レストランで、ザリガニ(Crawfish)やナマズ(Catfish)、ガンボスープにチャレンジ。ザリガニは味は問題なかったが、食べられる部分がほとんどなかった。ナマズは白身魚だなという感じで普通においしかった。となりに座った観光客らしい二組の夫婦はかなりザリガニが気になったらしく「それは何だ」「うまいのか」と質問してくるので「そうでもない」と答えたら納得したような表情を浮かべていた(笑)。
到着したのが土曜日の夕方とあって、街も次第に賑やかになってくる。僕たちは長時間ドライブした後だったので早々とホテルに引き上げたのだが、ホテル自体が騒がしく、一体何時までこの大音量の演奏が続くのだろうというくらいプライバシーのない街である。この種の音楽に趣味のある人は興奮して大変なのかもしれないが、残念ながら僕にはあまり分からない。
翌日はブラブラとフレンチクウォーターを散歩がてら、ニューオリンズの歴史を扱った蝋人形館やブードゥー教博物館に立ち寄る。前者はなかなか面白かったが、後者は全くの期待外れ。ともかく、この辺りは元々スペイン領、のちにフランス領となり、欧州での戦争で資金が必要となったナポレオンが米国に売り渡したことで米国に統合されたという流れはつかむことができた。だから街のあちこちにフランス統治時代の名残りがあり、街の名前もフレンチクウォーターなのである。
アンドリュー・ジャクソン将軍が海賊のラフィットと手を結んで、英国軍をニューオリンズの戦いで撃退したのもこの場所。実はこの戦いの時点で既に英米戦争は終結していたそうなのだが(ニューオリンズまで連絡が間に合わなかったとのこと)、もしここで上陸を許していたら英米戦争もすんなり終わらなかったという点でジャクソン将軍の功績は大きく取り上げられている。実際彼は小学校程度の学歴しか持っていないかったにも関わらず、その後第7代米国大統領に選ばれている。
それから妻が行きたいと言うので、Café du Mondeというベニエ(穴のない四角いドーナツ)発祥のカフェで一休み。Café du Mondeは日本にも進出しているということで、どんな洒落た店だろうと期待して行ったのだが、東南アジアの大衆食堂といった雰囲気の店内には全く「カフェ」の面影はない。「この店がどうして日本で人気があるんだろう」と考え込んでしまう。おそらく仕掛け人がフランスとニューオリンズという響きを肯定的に宣伝し、日本流にアレンジしたのだろう。
フレンチクウォーターの西端から出発しているSt. Charles Streetcarという市電に乗って片道40分の散策に出かける。この市電は「欲望という名の電車」にも登場した年代ものだそうだ。フレンチクウォーターとはうって変わって広々とした通りの両脇に歴史を感じさせるヨーロッパ風の邸宅が延々と並んでいる。一体どんな人がこんな立派な邸宅に住んでいるんだろう。
夜はニューオリンズ名物のケイジャン料理レストランで、ザリガニ(Crawfish)やナマズ(Catfish)、ガンボスープにチャレンジ。ザリガニは味は問題なかったが、食べられる部分がほとんどなかった。ナマズは白身魚だなという感じで普通においしかった。となりに座った観光客らしい二組の夫婦はかなりザリガニが気になったらしく「それは何だ」「うまいのか」と質問してくるので「そうでもない」と答えたら納得したような表情を浮かべていた(笑)。
Saturday, June 19, 2004
Selma (AL)
モントゴメリーから50マイルほど離れたセルマという街に向かう。セルマでは1965年に投票権を求めるアフリカン・アメリカンによるデモ行進が行われ、武力でこれを阻止しようとする警官隊とエドムンドペッタス橋で衝突、多くの犠牲者が出た"Bloody Sunday"(血の日曜日)の現場として知られている。
この悲劇は全米の耳目を集めるところとなり、これを重く見たジョンソン大統領がアラバマ州に介入、投票権法が成立するとともに、再度行われたデモ行進は警官隊の護衛により無事モントゴメリーの州議事堂に到着、そこでキング牧師による演説が行われた。当時アラバマ州は、全米で最も保守的な州であり、悪名高いジョージ・ウォレス知事のもと、最後までアフリカン・アメリカンに対する徹底的な弾圧、武力行使が行われていたのである。
僕が足を踏み入れたセルマはゴーストタウンと呼ぶに相応しい、錆びれた街だった。夜は営業しているレストランがないという話は聞いていたが、昼でも営業している店はごく少数であり、メインストリートにもテナントの入っていない空の建物が連なっている。観光客もほとんど見当たらず、おかげでビジターセンター、博物館では時間をもてあました職員の人たち(多くは高齢者)が、こちらが頼まなくても懇切丁寧に街の歴史や館内の説明をしてくれた。
最後に今回のセルマ訪問の主目的であった投票権博物館(National Voting Rights Museum)を訪れる。ここには投票権運動の過程が、写真やパネルで詳細に展示されているのだが、僕はそれよりも、この博物館のディレクターであり、実際にキング牧師と一緒にデモ行進にも加わったいうジョアンヌと話をし、いろいろと聞いてみたいことがあったのである(後で分かったことだが、彼女は当時11歳だったにも関わらず、デモに参加したという罪で投獄されている)。
命をかけて追い求めた投票権獲得運動以降の40年間で何が変わり、何が変わっていないのか。彼女は時折怒りをにじませながら、1時間以上に渡って僕の質問に答えてくれた。セルマでは人口の65%をアフリカン・アメリカンが占め、2000年には初めて黒人の市長が誕生、傍目には既に平等な権利が保証されているように見える。ビジターセンターの学生らしき若い女性も「高校に入るまでは白人と同じ学校に通っていたし、良い友達も多くいるわ。そういう意味では時代は大きく変わったと言えるんじゃないかしら」と言っていた。しかしジョアンヌは即座に「ノー」と答えた。例えアフリカン・アメリカンが市長になったとしても、自分たちには力がなく、政治、経済、マスコミなどの中枢権力は依然として白人によって占められていると言うのだ。
「あなたは白人と黒人が異なる居住区に住んでいる実態を見た?何か違うと感じるところはなかった?家の外観だけ見ていたらダメよ。家の前の道路を見るの。白人の居住区が綺麗に整備されている一方で、黒人居住区はひどい有様でしょ。全く整備されていないから。私たちは同じ税金を払っているのに同じ便益を得られていないのよ」
選挙権に話が及ぶと「あなたは誰が選挙の開票をしていると思う?」と質問するジョアンヌ。僕が「分からない」と答えると「その通り!分からないのよ。私たちにも分からないの」お互いにしばし沈黙。「え、でもそれって民主主義の根幹じゃ…」「さあどうかしら。あなたが日本にいて新聞で読んでいること、マスコミが毎日報道していることは事実ばかりではないわ。そんなものは偽善なのよ」彼女の言葉の端々から積年の恨み、憎しみ、無力感といった複雑な感情がひしひしと伝わってくる。
「昨日アラバマ州議事堂に行ったんだけど、あの人種差別主義者として悪名高いウォレス知事の大きな肖像画がど真ん中に飾られているのを見てとても違和感を感じた。それに彼が一旦知事を退いた後、1980年代まで3度も知事の職に返り咲いているという事実にも驚いた。彼は一体どんな人間だったのか」と質問する。
「彼はあなたが言う通りの人間で、最後まで変わらなかったわ。表面上は変わったように取り繕ってはいたけど、中身は全然。彼は一度この投票権博物館の前に来たことがあって、私は彼に話しかけたわ。ウォレス知事、ウォレス知事(半分皮肉を込めて)、中をご覧になりませんかってね。彼は小さな声で「見ようかな」と言ったんだけど、私は「もっと大きな声で言って下さい」とお願いしたわよ。取り巻き連中は好ましくないと思っていたようだったけど「ウォレス知事が中を見たいと言っています」と強引に連れてきたわ。そしたらこの展示を見て彼が何て言ったと思う?「たくさん"nice pictures"がありますね」って言ったのよ。私は「これは"nice pictures"なんかではありません。二度とそんな言葉を口にしないで下さい」って怒ったわ」
確かにここに展示されている写真は"nice"と表現できるようなものではない。KKKを中心とする白人の過激派たちに銃殺され、川に放り込まれた人々や、黒人の活動を支持したという理由で殺された白人などの写真が所狭しと飾られているのである。消防車の放水を受けたり、棍棒で殴られたり、警察犬に噛み付かれている人々の姿も展示されている。
今朝の新聞に「アラバマ州のバーミンガムで3人の警察官が銃撃されて死亡した」という記事が、顔を覆う女性警察官の写真とともに掲載されていた。記事によると、過去1年で複数の警察官が銃撃されたのはこれで三度目だと言う。一体このアラバマで何が起きているのか。ビジターセンターの女性は"hatred"だと言い、ジョアンヌは"Struggle"と表現をした。なぜ警察官が狙われるのかという問いに対してジョアンヌは「特に警官が狙われているという訳ではないのよ。それがたまたま警官だったというだけの話。恐ろしいことだけど、つい先日もそこのマクドナルドで銃の乱射事件が起きたばかりよ」つまりこのような事件は氷山の一角に過ぎないというのである。
彼女の話を要約すると次のようになる。こうした凶悪犯罪の原因は誤った教育システムにある。残念なことに良い教育を受けられずに育ったアフリカン・アメリカンの子供が同じような境遇で育ち、同じような過ちを繰り返す悪循環に陥っている。彼らは職を得ることができず、窮地に追い込まれて犯罪を繰り返すのだと言う。「もし私が本当にお金に困って生きていけないとして、目の前をあなたが歩いていたらどうすると思う。私はあなたを撃つわよ」身を乗り出したジョアンヌの迫力ある表情と声に思わずドキッとする。
ジョアンヌと、途中から一緒に話を聞かせてくれたジョアンヌの友人に御礼を言い、博物館を後にする。二人とも「あなたたちと会えて、興味深い話ができて本当に楽しかったわ」と手を差し伸べてくれる。出口のところで受付の若い女性が「ジョアンヌはどうだった?」と聞いてくるので「彼女はグレイトだ」と言うと彼女は嬉しそうに笑った。
外に出て車へ向かう途中、隣りの地元新聞社の前にある自動販売機に目が止まった。「マクドナルドでの銃撃」という大きな見出しの新聞が売られている。さっきジョアンヌが言っていた事件だろう。5日前の日曜日の新聞だったのだが、あれを買いたいと言うと、職員の女性が「お金はいいわ。持って行きなさい」と笑顔で手渡してくれる。
その場で目を通した記事は次のような内容であった。息子の誕生日をマクドナルドで祝っていた男がそのパーティを銃弾の雨でぶち壊した。ハイランド通りのマクドナルド(さっき僕が通ったばかりの道)で、口論となった男女が表に出た後、男が車から銃を取り出し、女性や付近一帯に向けて八発の銃弾を乱射した。妊娠中のその女性は、男のガールフレンドの姉(妹)で、彼女のことで言い争っていたと言う。二発は女性に当り、他の銃弾は周囲の店を貫通、そのうちの一発は小さな子供の頭をかすめた。
目撃者たちの言葉。「男は誰を狙っている風でもなかった。あちこちに乱射していたんだ。標的は誰でもよかったんじゃないか」「これでなぜ私が家と会社の往復しかしないか分かるだろう」「とっさに伏せたから何も見えなかった。こんな公共の場で銃を乱射するなんて」「あの小さな子供が犠牲にならなかったことを神に感謝したよ」
パーキンス市長の言葉。「我々はこの銃をストリートから排除しなければならない。彼らは銃を持ち歩く必要があると思っているが、我々はそれを止めなければならない。私はセルマの市民が銃を日常的に持ち歩いていることを憂慮している」
セルマの街が急に恐ろしく見えてくる。急いで車に乗り込んで、街を後にする。しかしおそらくこれはセルマに限ったことではなく、バーミンガムやモントゴメリーも含めて、アラバマでは常にこうした危険と背中合わせなのだろう。「何で夜レストランやってないんだろうね」と呑気に話していた昨日とは随分世界が違って見える。
この悲劇は全米の耳目を集めるところとなり、これを重く見たジョンソン大統領がアラバマ州に介入、投票権法が成立するとともに、再度行われたデモ行進は警官隊の護衛により無事モントゴメリーの州議事堂に到着、そこでキング牧師による演説が行われた。当時アラバマ州は、全米で最も保守的な州であり、悪名高いジョージ・ウォレス知事のもと、最後までアフリカン・アメリカンに対する徹底的な弾圧、武力行使が行われていたのである。
僕が足を踏み入れたセルマはゴーストタウンと呼ぶに相応しい、錆びれた街だった。夜は営業しているレストランがないという話は聞いていたが、昼でも営業している店はごく少数であり、メインストリートにもテナントの入っていない空の建物が連なっている。観光客もほとんど見当たらず、おかげでビジターセンター、博物館では時間をもてあました職員の人たち(多くは高齢者)が、こちらが頼まなくても懇切丁寧に街の歴史や館内の説明をしてくれた。
最後に今回のセルマ訪問の主目的であった投票権博物館(National Voting Rights Museum)を訪れる。ここには投票権運動の過程が、写真やパネルで詳細に展示されているのだが、僕はそれよりも、この博物館のディレクターであり、実際にキング牧師と一緒にデモ行進にも加わったいうジョアンヌと話をし、いろいろと聞いてみたいことがあったのである(後で分かったことだが、彼女は当時11歳だったにも関わらず、デモに参加したという罪で投獄されている)。
命をかけて追い求めた投票権獲得運動以降の40年間で何が変わり、何が変わっていないのか。彼女は時折怒りをにじませながら、1時間以上に渡って僕の質問に答えてくれた。セルマでは人口の65%をアフリカン・アメリカンが占め、2000年には初めて黒人の市長が誕生、傍目には既に平等な権利が保証されているように見える。ビジターセンターの学生らしき若い女性も「高校に入るまでは白人と同じ学校に通っていたし、良い友達も多くいるわ。そういう意味では時代は大きく変わったと言えるんじゃないかしら」と言っていた。しかしジョアンヌは即座に「ノー」と答えた。例えアフリカン・アメリカンが市長になったとしても、自分たちには力がなく、政治、経済、マスコミなどの中枢権力は依然として白人によって占められていると言うのだ。
「あなたは白人と黒人が異なる居住区に住んでいる実態を見た?何か違うと感じるところはなかった?家の外観だけ見ていたらダメよ。家の前の道路を見るの。白人の居住区が綺麗に整備されている一方で、黒人居住区はひどい有様でしょ。全く整備されていないから。私たちは同じ税金を払っているのに同じ便益を得られていないのよ」
選挙権に話が及ぶと「あなたは誰が選挙の開票をしていると思う?」と質問するジョアンヌ。僕が「分からない」と答えると「その通り!分からないのよ。私たちにも分からないの」お互いにしばし沈黙。「え、でもそれって民主主義の根幹じゃ…」「さあどうかしら。あなたが日本にいて新聞で読んでいること、マスコミが毎日報道していることは事実ばかりではないわ。そんなものは偽善なのよ」彼女の言葉の端々から積年の恨み、憎しみ、無力感といった複雑な感情がひしひしと伝わってくる。
「昨日アラバマ州議事堂に行ったんだけど、あの人種差別主義者として悪名高いウォレス知事の大きな肖像画がど真ん中に飾られているのを見てとても違和感を感じた。それに彼が一旦知事を退いた後、1980年代まで3度も知事の職に返り咲いているという事実にも驚いた。彼は一体どんな人間だったのか」と質問する。
「彼はあなたが言う通りの人間で、最後まで変わらなかったわ。表面上は変わったように取り繕ってはいたけど、中身は全然。彼は一度この投票権博物館の前に来たことがあって、私は彼に話しかけたわ。ウォレス知事、ウォレス知事(半分皮肉を込めて)、中をご覧になりませんかってね。彼は小さな声で「見ようかな」と言ったんだけど、私は「もっと大きな声で言って下さい」とお願いしたわよ。取り巻き連中は好ましくないと思っていたようだったけど「ウォレス知事が中を見たいと言っています」と強引に連れてきたわ。そしたらこの展示を見て彼が何て言ったと思う?「たくさん"nice pictures"がありますね」って言ったのよ。私は「これは"nice pictures"なんかではありません。二度とそんな言葉を口にしないで下さい」って怒ったわ」
確かにここに展示されている写真は"nice"と表現できるようなものではない。KKKを中心とする白人の過激派たちに銃殺され、川に放り込まれた人々や、黒人の活動を支持したという理由で殺された白人などの写真が所狭しと飾られているのである。消防車の放水を受けたり、棍棒で殴られたり、警察犬に噛み付かれている人々の姿も展示されている。
今朝の新聞に「アラバマ州のバーミンガムで3人の警察官が銃撃されて死亡した」という記事が、顔を覆う女性警察官の写真とともに掲載されていた。記事によると、過去1年で複数の警察官が銃撃されたのはこれで三度目だと言う。一体このアラバマで何が起きているのか。ビジターセンターの女性は"hatred"だと言い、ジョアンヌは"Struggle"と表現をした。なぜ警察官が狙われるのかという問いに対してジョアンヌは「特に警官が狙われているという訳ではないのよ。それがたまたま警官だったというだけの話。恐ろしいことだけど、つい先日もそこのマクドナルドで銃の乱射事件が起きたばかりよ」つまりこのような事件は氷山の一角に過ぎないというのである。
彼女の話を要約すると次のようになる。こうした凶悪犯罪の原因は誤った教育システムにある。残念なことに良い教育を受けられずに育ったアフリカン・アメリカンの子供が同じような境遇で育ち、同じような過ちを繰り返す悪循環に陥っている。彼らは職を得ることができず、窮地に追い込まれて犯罪を繰り返すのだと言う。「もし私が本当にお金に困って生きていけないとして、目の前をあなたが歩いていたらどうすると思う。私はあなたを撃つわよ」身を乗り出したジョアンヌの迫力ある表情と声に思わずドキッとする。
ジョアンヌと、途中から一緒に話を聞かせてくれたジョアンヌの友人に御礼を言い、博物館を後にする。二人とも「あなたたちと会えて、興味深い話ができて本当に楽しかったわ」と手を差し伸べてくれる。出口のところで受付の若い女性が「ジョアンヌはどうだった?」と聞いてくるので「彼女はグレイトだ」と言うと彼女は嬉しそうに笑った。
外に出て車へ向かう途中、隣りの地元新聞社の前にある自動販売機に目が止まった。「マクドナルドでの銃撃」という大きな見出しの新聞が売られている。さっきジョアンヌが言っていた事件だろう。5日前の日曜日の新聞だったのだが、あれを買いたいと言うと、職員の女性が「お金はいいわ。持って行きなさい」と笑顔で手渡してくれる。
その場で目を通した記事は次のような内容であった。息子の誕生日をマクドナルドで祝っていた男がそのパーティを銃弾の雨でぶち壊した。ハイランド通りのマクドナルド(さっき僕が通ったばかりの道)で、口論となった男女が表に出た後、男が車から銃を取り出し、女性や付近一帯に向けて八発の銃弾を乱射した。妊娠中のその女性は、男のガールフレンドの姉(妹)で、彼女のことで言い争っていたと言う。二発は女性に当り、他の銃弾は周囲の店を貫通、そのうちの一発は小さな子供の頭をかすめた。
目撃者たちの言葉。「男は誰を狙っている風でもなかった。あちこちに乱射していたんだ。標的は誰でもよかったんじゃないか」「これでなぜ私が家と会社の往復しかしないか分かるだろう」「とっさに伏せたから何も見えなかった。こんな公共の場で銃を乱射するなんて」「あの小さな子供が犠牲にならなかったことを神に感謝したよ」
パーキンス市長の言葉。「我々はこの銃をストリートから排除しなければならない。彼らは銃を持ち歩く必要があると思っているが、我々はそれを止めなければならない。私はセルマの市民が銃を日常的に持ち歩いていることを憂慮している」
セルマの街が急に恐ろしく見えてくる。急いで車に乗り込んで、街を後にする。しかしおそらくこれはセルマに限ったことではなく、バーミンガムやモントゴメリーも含めて、アラバマでは常にこうした危険と背中合わせなのだろう。「何で夜レストランやってないんだろうね」と呑気に話していた昨日とは随分世界が違って見える。
Montgomery (AL)
アトランタから約3時間、アラバマ州のモントゴメリーに到着。それにしても暑さが厳しい。どんどん南に下ってきたせいか、単に気候が夏に向かっているのか、とにかく日差しが強い上に蒸し暑さも加わって、少し歩いただけでもかなり体力を消耗する。
最近天気予報チャンネルが面白い。今までは「こんな広い国で全国の予報をしてもあまり意味がないんじゃないか」と思っていたのだが、今回の旅で自分たちが通って来た都市、これから向かう都市の天気、気温が分かるので思わずリモコンの手が止まってしまう。
毎日見ていて分かるのは、とにかくアリゾナ州のフェニックスが飛び抜けて暑いということ。ほとんど毎日華氏100度(摂氏38度)を超えているのだが、周辺の都市やテキサス州でも90度前半くらいに留まっているので、いかにフェニックスが暑いかが分かる。あとはカリフォルニアが涼しいということ。中学生のときに確か西岸海洋性気候とかいう名前で一年を通して穏やかな気候と習った気がするが、地理的に極めて近い地域でも気候に大きな差が見られるのである。
それからトルネードが頻繁に発生しているというニュースが気にかかる。つい数日前はシアトルの近郊でトルネードが一日に4度発生と報じられていたが、昨日はイリノイでも発生したようだ。またここ数日は各地で豪雨となっており、これから向かうサンディエゴでは洪水で行方不明者も出ている模様。
今日はアラバマ州議事堂を訪れる。モントゴメリーの街でひときわ目立つその建物は、当時アフリカン・アメリカンを苦しめた白人たちの総本山であるという事実を差し引いても、とても威圧的な雰囲気を醸し出している。中に足を踏み入れるとにこやかな白人の老人が僕たちを出迎え、館内の簡単な説明をしてくれる。
建物の中心部には巨大な肖像画が4枚飾られており、そのうちの1枚は白人至上主義者としてアラバマの歴史に汚点を残した(はず)のジョージ・ウォレス知事、もう1枚はやはり州知事に就任したウォレス夫人である。なぜこのウォレス夫妻がこれほど英雄的に扱われているのか。21世紀を迎えたアラバマが未だに変わっていないことを象徴するかのようなこの肖像画には少なからずショックを受けた。
帰り際にフロントに立ち寄ると、先ほどの老人と一緒に、同じく老年の黒人係員が座っていた。彼らと少し立ち話をしていたのだが、白人係員(おそらく上司)は耳が遠いらしく、居心地が悪くなったのか、席を外してしまった。すると黒人の係員が「さて本音を聞かせてあげよう」と言わんばかりに身を乗り出して僕に話を始めた。
「こういう言い方はどうだろう。私は1960年代にキング牧師と一緒に行進もしたが、そのときはこの議事堂を外から眺めるだけだった。まさか自分がこの建物の中に座る日が来るなんて想像もできなかった。そういう意味では進歩したと言えるのかもしれない。でも私がここへ送られてきたのはつい3週間前だ。なぜ私がここに送られてきたのかと考えてみると、おそらく観光客を集めて金儲けをしたいということだろう。所詮は金儲けのためなんだよ」淡々と話をしているようで、しかしずり落ちた眼鏡の上から、鋭い眼光でこちらの様子を窺っている。洞察力の鋭い人という印象を受けた。
「でも今はもう恐れるものは何もないのですね?」と聞くと、やや語気を強めて「恐れるだって?私は何かを恐れたことなんてない。確かに彼ら(白人)は私を殴り、殺すことはできたかもしれない。だが私の魂は決して殺すことはできない。キング牧師の教えを受け、彼とともに行動した私は何も恐れる必要がなかったんだよ」
「ウォレス知事は変わりましたか?」「ノーノー。彼は全く変わらなかった。彼は肌の色でしか人間を判断できなかったんだ。それが黒だろうが紫だろうが、彼にとっては違いがなかっただろうね。でも彼は4度も知事に選ばれた。指名されたんじゃなくて選ばれたんだ。これは事実なんだ。おっともう5時か、私はこれで失礼するよ。君たちと話ができてとても楽しかった。この地を楽しんでくれたら嬉しいよ」と手を差し伸べる老人。覚束ない足取りで去って行く彼の後姿には、歴史を背負った人間の悲哀が満ちているように見えた。
僕たちも議事堂を後にし、近くに建てられた公民権メモリアルに立ち寄る。キング牧師の有名な言葉とともに、公民権運動で犠牲になったアフリカン・アメリカンたちの名前と命日、どのような最期を遂げたのかが円形の石に刻まれていた。
最近天気予報チャンネルが面白い。今までは「こんな広い国で全国の予報をしてもあまり意味がないんじゃないか」と思っていたのだが、今回の旅で自分たちが通って来た都市、これから向かう都市の天気、気温が分かるので思わずリモコンの手が止まってしまう。
毎日見ていて分かるのは、とにかくアリゾナ州のフェニックスが飛び抜けて暑いということ。ほとんど毎日華氏100度(摂氏38度)を超えているのだが、周辺の都市やテキサス州でも90度前半くらいに留まっているので、いかにフェニックスが暑いかが分かる。あとはカリフォルニアが涼しいということ。中学生のときに確か西岸海洋性気候とかいう名前で一年を通して穏やかな気候と習った気がするが、地理的に極めて近い地域でも気候に大きな差が見られるのである。
それからトルネードが頻繁に発生しているというニュースが気にかかる。つい数日前はシアトルの近郊でトルネードが一日に4度発生と報じられていたが、昨日はイリノイでも発生したようだ。またここ数日は各地で豪雨となっており、これから向かうサンディエゴでは洪水で行方不明者も出ている模様。
今日はアラバマ州議事堂を訪れる。モントゴメリーの街でひときわ目立つその建物は、当時アフリカン・アメリカンを苦しめた白人たちの総本山であるという事実を差し引いても、とても威圧的な雰囲気を醸し出している。中に足を踏み入れるとにこやかな白人の老人が僕たちを出迎え、館内の簡単な説明をしてくれる。
建物の中心部には巨大な肖像画が4枚飾られており、そのうちの1枚は白人至上主義者としてアラバマの歴史に汚点を残した(はず)のジョージ・ウォレス知事、もう1枚はやはり州知事に就任したウォレス夫人である。なぜこのウォレス夫妻がこれほど英雄的に扱われているのか。21世紀を迎えたアラバマが未だに変わっていないことを象徴するかのようなこの肖像画には少なからずショックを受けた。
帰り際にフロントに立ち寄ると、先ほどの老人と一緒に、同じく老年の黒人係員が座っていた。彼らと少し立ち話をしていたのだが、白人係員(おそらく上司)は耳が遠いらしく、居心地が悪くなったのか、席を外してしまった。すると黒人の係員が「さて本音を聞かせてあげよう」と言わんばかりに身を乗り出して僕に話を始めた。
「こういう言い方はどうだろう。私は1960年代にキング牧師と一緒に行進もしたが、そのときはこの議事堂を外から眺めるだけだった。まさか自分がこの建物の中に座る日が来るなんて想像もできなかった。そういう意味では進歩したと言えるのかもしれない。でも私がここへ送られてきたのはつい3週間前だ。なぜ私がここに送られてきたのかと考えてみると、おそらく観光客を集めて金儲けをしたいということだろう。所詮は金儲けのためなんだよ」淡々と話をしているようで、しかしずり落ちた眼鏡の上から、鋭い眼光でこちらの様子を窺っている。洞察力の鋭い人という印象を受けた。
「でも今はもう恐れるものは何もないのですね?」と聞くと、やや語気を強めて「恐れるだって?私は何かを恐れたことなんてない。確かに彼ら(白人)は私を殴り、殺すことはできたかもしれない。だが私の魂は決して殺すことはできない。キング牧師の教えを受け、彼とともに行動した私は何も恐れる必要がなかったんだよ」
「ウォレス知事は変わりましたか?」「ノーノー。彼は全く変わらなかった。彼は肌の色でしか人間を判断できなかったんだ。それが黒だろうが紫だろうが、彼にとっては違いがなかっただろうね。でも彼は4度も知事に選ばれた。指名されたんじゃなくて選ばれたんだ。これは事実なんだ。おっともう5時か、私はこれで失礼するよ。君たちと話ができてとても楽しかった。この地を楽しんでくれたら嬉しいよ」と手を差し伸べる老人。覚束ない足取りで去って行く彼の後姿には、歴史を背負った人間の悲哀が満ちているように見えた。
僕たちも議事堂を後にし、近くに建てられた公民権メモリアルに立ち寄る。キング牧師の有名な言葉とともに、公民権運動で犠牲になったアフリカン・アメリカンたちの名前と命日、どのような最期を遂げたのかが円形の石に刻まれていた。
Wednesday, June 16, 2004
Atlanta (GA) (2)
ジョージア州出身の第39代米国大統領カーターの功績を称え設立されたカーター・センターを訪れる。カーターと言えば共和党のレーガンに敗れて再選に失敗、4年しか大統領を務められなかったこともあって何となく影の薄い存在という印象がある。しかしここアトランタでは地元のヒーローであり、まるで既に亡くなった偉人のような扱いである。
展示によると、カーターは父親のピーナツ畑を継いで農場経営者として自ら汗を流す一方、教育、教会、人種統合問題といった地域活動への関与を通じて徐々に政治の世界に目を向けるようになる。1963年から1966年の4年間はジョージア州の上院議員として活躍、その後、ジョージア州知事を経て、ついに大統領選挙へ出馬するほどの大出世を遂げることになる。人種差別問題にも真っ向から取り組むカーターの姿勢に、南部の黒人社会はJFK以来の期待を寄せたとも言われている。
選挙戦では"Jimmy, Who?"とメディアに揶揄されるほど全国的知名度は低く、どう見ても形勢不利。しかしそれを逆手に取るような「ピーナツ畑出身」「倹約家」「信頼できる人物」というイメージ作りにフォーカスしたキャンペーンは痛快である。「こんにちは。私はジミー・カーターと言います。大統領に立候補しています」というポスターには思わずクスッとさせられる。
またSPを伴うことなく、一人で各地の街角やスーパーを歩き回り、道行く人々に握手を求める映像はカーター氏のイメージにぴったりはまる。大統領就任直後の式典パレードでも、議事堂からホワイトハウスまでの道のり(ペンシルベニア通り)を家族と一緒に「歩き」、周囲を驚かせたという写真も展示されている。
大統領就任後は、まるで現ブッシュ政権と対照をなすように、中東や中国、パナマにおける平和外交、軍縮に力を入れていく。大統領の職を辞してからも親善大使として世界各国を飛び回り、数々の業績をあげ、2002年にはノーベル平和賞も受賞している。この受賞にはノーベル賞選考委員会のブッシュ政権に対する批判が込められているという説もあるそうだが、いずれにしてもカーター氏はピーナツ畑から一貫して平和、共存、平等という持論を貫いてきた人格者なのである。今やこのカーター・センターは米国最大のNGOに成長しているらしい。
米国が世界の超大国であるからこそ、カーター氏のように平和外交を主導するリーダーが求められているのではないかという話を妻としながらセンターを後にする。強い米国が武力や経済的手段を駆使して更に強さを誇示したところで、世界に生まれるのは嫌悪感と敵意だけである。今年の大統領選挙でもブッシュ現大統領はケリー上院議員に「米国の現状を否定してばかりの悲観論者だ」という論調で攻撃をしかけている。しかし米国の長である大統領が米国の利益追求だけに走ることは許されない。世界の潮流を読み、世界の人々の声に耳を傾けられる人材でなければならないのである。
折りしも、元外交官や元CIA長官らで構成されるグループが、公にブッシュ政権交代を要求する異例の声明を発表したというニュースも飛び込んできた。
夕方はダウンタウンのど真ん中にあるUndergroundというモールを中心に、街の様子を眺めて歩く。若者たちでごった返すこの場所は、ほぼアフリカン・アメリカンに占拠されている。ニューイングランドでは彼らはマイノリティであり、肩身の狭い思いをしているのだが、ここアトランタでは完全なマジョリティとして「我が街」を謳歌し、闊歩しているように見える。米国という国は本当に多様な顔を持っている。
展示によると、カーターは父親のピーナツ畑を継いで農場経営者として自ら汗を流す一方、教育、教会、人種統合問題といった地域活動への関与を通じて徐々に政治の世界に目を向けるようになる。1963年から1966年の4年間はジョージア州の上院議員として活躍、その後、ジョージア州知事を経て、ついに大統領選挙へ出馬するほどの大出世を遂げることになる。人種差別問題にも真っ向から取り組むカーターの姿勢に、南部の黒人社会はJFK以来の期待を寄せたとも言われている。
選挙戦では"Jimmy, Who?"とメディアに揶揄されるほど全国的知名度は低く、どう見ても形勢不利。しかしそれを逆手に取るような「ピーナツ畑出身」「倹約家」「信頼できる人物」というイメージ作りにフォーカスしたキャンペーンは痛快である。「こんにちは。私はジミー・カーターと言います。大統領に立候補しています」というポスターには思わずクスッとさせられる。
またSPを伴うことなく、一人で各地の街角やスーパーを歩き回り、道行く人々に握手を求める映像はカーター氏のイメージにぴったりはまる。大統領就任直後の式典パレードでも、議事堂からホワイトハウスまでの道のり(ペンシルベニア通り)を家族と一緒に「歩き」、周囲を驚かせたという写真も展示されている。
大統領就任後は、まるで現ブッシュ政権と対照をなすように、中東や中国、パナマにおける平和外交、軍縮に力を入れていく。大統領の職を辞してからも親善大使として世界各国を飛び回り、数々の業績をあげ、2002年にはノーベル平和賞も受賞している。この受賞にはノーベル賞選考委員会のブッシュ政権に対する批判が込められているという説もあるそうだが、いずれにしてもカーター氏はピーナツ畑から一貫して平和、共存、平等という持論を貫いてきた人格者なのである。今やこのカーター・センターは米国最大のNGOに成長しているらしい。
米国が世界の超大国であるからこそ、カーター氏のように平和外交を主導するリーダーが求められているのではないかという話を妻としながらセンターを後にする。強い米国が武力や経済的手段を駆使して更に強さを誇示したところで、世界に生まれるのは嫌悪感と敵意だけである。今年の大統領選挙でもブッシュ現大統領はケリー上院議員に「米国の現状を否定してばかりの悲観論者だ」という論調で攻撃をしかけている。しかし米国の長である大統領が米国の利益追求だけに走ることは許されない。世界の潮流を読み、世界の人々の声に耳を傾けられる人材でなければならないのである。
折りしも、元外交官や元CIA長官らで構成されるグループが、公にブッシュ政権交代を要求する異例の声明を発表したというニュースも飛び込んできた。
夕方はダウンタウンのど真ん中にあるUndergroundというモールを中心に、街の様子を眺めて歩く。若者たちでごった返すこの場所は、ほぼアフリカン・アメリカンに占拠されている。ニューイングランドでは彼らはマイノリティであり、肩身の狭い思いをしているのだが、ここアトランタでは完全なマジョリティとして「我が街」を謳歌し、闊歩しているように見える。米国という国は本当に多様な顔を持っている。
Tuesday, June 15, 2004
Atlanta (GA) (1)
アトランタは以前一度立ち寄ったことがあったのだが、その時にとても安心できる地域という印象をもったバックヘッド地区(ダウンタウンから北へ約10km)を今回の拠点とする。
まずはMartin Luther King Jr. National Historic Siteへ。ビジターセンターでひと通り展示を見て回った後、キング牧師の生家を案内してくれるツアーに参加する。生家はビジターセンターに程近いAuburn Avenueという通り沿いにあり、この一帯は歴史地区として保存されている。
キング牧師が12歳まで過ごしたという生家は予想以上に大きく、内装も設備もとても立派なのに驚いた。そのことをガイドの人に尋ねたところ「当時のアトランタにおけるアッパーミドルクラスの黒人の家としては平均的」とのこと。一方でこの地域には労働者階級のアフリカン・アメリカンとともに、医者や弁護士や大学教授も多く住んでおり、Auburn Avenueは世界で最もリッチな黒人社会と呼ばれていたそうだ。この矛盾する説明がどうも腑に落ちない。職場や学校を含めた公共の場で徹底的な隔離政策を受けながら、そのような専門技能をもったリッチな人々がどのように誕生し得たのだろうか。
ツアーの後でビジターセンターの人に疑問をぶつけたところ、黒人による黒人コミュニティに対するビジネスには長い歴史があり、教育も黒人コミュニティの中で施されていたとのこと。また北部ではリンカーンの奴隷解放宣言以来、人種問題に関して比較的寛容な措置がとられていたので、北部で教育を受けた黒人が南部に戻って指導者になるということもあっただろう。キング牧師自身もボストン大学で博士課程を取得している。
キング牧師の公民権運動の前後に公然と行われていた非道な人種差別については、事前に借りたDVDで目の当たりにしていたので、展示の中に特に真新しいものはなかったのだが、年代別に順を追って見ていくと、キング牧師を中心とする黒人コミュニティの非暴力による訴え、それによる公民権獲得の過程はまさに革命そのものである。
また真剣な眼差しで食い入るように展示を見つめる黒人の家族、少年、少女の顔を見ていると、キング牧師が成し遂げた偉業は法としての公民権獲得に留まるものではないことがよく分かる。「もはや暴力か非暴力かの選択ではない。非暴力か非生存かが問われているのだ」というキング牧師のメッセージは、今も一人一人の胸の中に宗教以上に大きな道徳、モラルとして刻み込まれているような気がしてならない。
ところでこうやって漢字で「黒人」「白人」と書くことには強い違和感を覚える。米国でも「ニグロ」という表現はとっくにタブーになっているが、最近では「ブラック」ではなく「アフリカン・アメリカン」という呼び方に落ち着いているようだ。毎回カタカナで「アフリカン・アメリカン」と書くのは冗長なのでつい「黒人」という書き方をしてしまうのだが、適切な表現ではないかもしれない。
ドライブ旅行では音楽が欠かせないので、家にあるCDを何気なくごそっと持ってきたのだが、アトランタへ向かう車の中で久しぶりにスティービー・ワンダーを流してみた。僕が昔から好きだった曲は"A Place in the Sun"で、子供心にこのメロディーが醸し出すせつない雰囲気、「誰にでも陽のあたる場所はある」というメッセージに単純に共感していたのだと思う。
しかし改めて歌詞の意味かみしめてみると、自分がこの歌に込められた深い悲しみ、時代背景に全く気がついていなかったことに愕然とし、頭を殴られたような衝撃を覚えた。歌詞カードを急いでめくり、この歌が作られた時期を確かめる。「1966」という数字が目が止まる。公民権運動が最大の盛り上がりを見せ、公民権法が成立したのが1964年、キング牧師が遊説先のメンフィスで暗殺されたのが1968年である。1966年という年は公民権法の成立によって頂点に達した興奮が冷め、劇的には変わらない厳しい現実に誰もが無力感を覚えていた頃だっただろう。
特に曲の最後にスティービーが強く誰か訴えかけるように歌う部分は鬼気迫るものがある。アラバマで行われた数々の非人道的行為に象徴される歴史的事実を見た今となっては、僕にもこのメッセージに込められた意味が理解できる。
A Place in the Sun
Like a long lonely stream
I keep runnin' towards a dream
Movin' on, movin' on
Like a branch on a tree
I keep reachin' to be free
Movin' on, movin' on
'Cause there's a place in the sun
Where there's hope for ev'ryone
Where my poor restless heart's gotta run
There's a place in the sun
And before my life is done
Got to find me a place in the sun
Like an old dusty road
I get weary from the load
Movin' on, movin' on
Like this tired troubled earth
I've been rollin' since my birth
Movin' on, movin' on
'Cause there's a place in the sun
Where there's hope for ev'ryone
Where my poor restless heart's gotta run
There's a place in the sun
And before my life is done
Got to find me a place in the sun
You know when times are bad
And you're feeling sad
I want you to always remember
Yes, there's a place in the sun
Where there's hope for ev'ryone
Where my poor restless heart's gotta run
There's a place in the sun
And before my life is done
Got to find me a place in the sun
スティービー・ワンダーが12歳でデビューをはたした天才的なミュージシャンであることはよく知られているが、同時に彼がキング牧師と時代をともにした、政治的、思想的に重要なカリスマであったことは知らなかった。ライナーノーツによると、実際彼は多くの時間を慈善活動に費やしており、キング牧師の誕生日を国の祝日にする立役者として貢献したのも彼だったそうだ。
アフリカン・アメリカンの隔離問題(Segregation)を歴史として片付けるのは時期尚早である。制度としてではなく、現実として、21世紀を迎えた今も米国社会に深く根付いている。同じ国に住み、同じ国旗に忠誠を誓いつつ、彼らは精神的に(または物理的に)異なる社会に「住み分け」ている。米国では黄色人種というマイノリティである僕も他人事として受け流すことはできないのだが、「帰る国」のある僕とは根本的に抱える問題の大きさが違う。
まずはMartin Luther King Jr. National Historic Siteへ。ビジターセンターでひと通り展示を見て回った後、キング牧師の生家を案内してくれるツアーに参加する。生家はビジターセンターに程近いAuburn Avenueという通り沿いにあり、この一帯は歴史地区として保存されている。
キング牧師が12歳まで過ごしたという生家は予想以上に大きく、内装も設備もとても立派なのに驚いた。そのことをガイドの人に尋ねたところ「当時のアトランタにおけるアッパーミドルクラスの黒人の家としては平均的」とのこと。一方でこの地域には労働者階級のアフリカン・アメリカンとともに、医者や弁護士や大学教授も多く住んでおり、Auburn Avenueは世界で最もリッチな黒人社会と呼ばれていたそうだ。この矛盾する説明がどうも腑に落ちない。職場や学校を含めた公共の場で徹底的な隔離政策を受けながら、そのような専門技能をもったリッチな人々がどのように誕生し得たのだろうか。
ツアーの後でビジターセンターの人に疑問をぶつけたところ、黒人による黒人コミュニティに対するビジネスには長い歴史があり、教育も黒人コミュニティの中で施されていたとのこと。また北部ではリンカーンの奴隷解放宣言以来、人種問題に関して比較的寛容な措置がとられていたので、北部で教育を受けた黒人が南部に戻って指導者になるということもあっただろう。キング牧師自身もボストン大学で博士課程を取得している。
キング牧師の公民権運動の前後に公然と行われていた非道な人種差別については、事前に借りたDVDで目の当たりにしていたので、展示の中に特に真新しいものはなかったのだが、年代別に順を追って見ていくと、キング牧師を中心とする黒人コミュニティの非暴力による訴え、それによる公民権獲得の過程はまさに革命そのものである。
また真剣な眼差しで食い入るように展示を見つめる黒人の家族、少年、少女の顔を見ていると、キング牧師が成し遂げた偉業は法としての公民権獲得に留まるものではないことがよく分かる。「もはや暴力か非暴力かの選択ではない。非暴力か非生存かが問われているのだ」というキング牧師のメッセージは、今も一人一人の胸の中に宗教以上に大きな道徳、モラルとして刻み込まれているような気がしてならない。
ところでこうやって漢字で「黒人」「白人」と書くことには強い違和感を覚える。米国でも「ニグロ」という表現はとっくにタブーになっているが、最近では「ブラック」ではなく「アフリカン・アメリカン」という呼び方に落ち着いているようだ。毎回カタカナで「アフリカン・アメリカン」と書くのは冗長なのでつい「黒人」という書き方をしてしまうのだが、適切な表現ではないかもしれない。
ドライブ旅行では音楽が欠かせないので、家にあるCDを何気なくごそっと持ってきたのだが、アトランタへ向かう車の中で久しぶりにスティービー・ワンダーを流してみた。僕が昔から好きだった曲は"A Place in the Sun"で、子供心にこのメロディーが醸し出すせつない雰囲気、「誰にでも陽のあたる場所はある」というメッセージに単純に共感していたのだと思う。
しかし改めて歌詞の意味かみしめてみると、自分がこの歌に込められた深い悲しみ、時代背景に全く気がついていなかったことに愕然とし、頭を殴られたような衝撃を覚えた。歌詞カードを急いでめくり、この歌が作られた時期を確かめる。「1966」という数字が目が止まる。公民権運動が最大の盛り上がりを見せ、公民権法が成立したのが1964年、キング牧師が遊説先のメンフィスで暗殺されたのが1968年である。1966年という年は公民権法の成立によって頂点に達した興奮が冷め、劇的には変わらない厳しい現実に誰もが無力感を覚えていた頃だっただろう。
特に曲の最後にスティービーが強く誰か訴えかけるように歌う部分は鬼気迫るものがある。アラバマで行われた数々の非人道的行為に象徴される歴史的事実を見た今となっては、僕にもこのメッセージに込められた意味が理解できる。
A Place in the Sun
Like a long lonely stream
I keep runnin' towards a dream
Movin' on, movin' on
Like a branch on a tree
I keep reachin' to be free
Movin' on, movin' on
'Cause there's a place in the sun
Where there's hope for ev'ryone
Where my poor restless heart's gotta run
There's a place in the sun
And before my life is done
Got to find me a place in the sun
Like an old dusty road
I get weary from the load
Movin' on, movin' on
Like this tired troubled earth
I've been rollin' since my birth
Movin' on, movin' on
'Cause there's a place in the sun
Where there's hope for ev'ryone
Where my poor restless heart's gotta run
There's a place in the sun
And before my life is done
Got to find me a place in the sun
You know when times are bad
And you're feeling sad
I want you to always remember
Yes, there's a place in the sun
Where there's hope for ev'ryone
Where my poor restless heart's gotta run
There's a place in the sun
And before my life is done
Got to find me a place in the sun
スティービー・ワンダーが12歳でデビューをはたした天才的なミュージシャンであることはよく知られているが、同時に彼がキング牧師と時代をともにした、政治的、思想的に重要なカリスマであったことは知らなかった。ライナーノーツによると、実際彼は多くの時間を慈善活動に費やしており、キング牧師の誕生日を国の祝日にする立役者として貢献したのも彼だったそうだ。
アフリカン・アメリカンの隔離問題(Segregation)を歴史として片付けるのは時期尚早である。制度としてではなく、現実として、21世紀を迎えた今も米国社会に深く根付いている。同じ国に住み、同じ国旗に忠誠を誓いつつ、彼らは精神的に(または物理的に)異なる社会に「住み分け」ている。米国では黄色人種というマイノリティである僕も他人事として受け流すことはできないのだが、「帰る国」のある僕とは根本的に抱える問題の大きさが違う。
Charlotte (NC)
DCからアトランタまでは10時間くらいかかりそうなので、途中にあるシャーロット(ノースカロライナ州)という街で宿をとる。特に何があるという訳でもなく、こういう機会でもなければ一生来ることのなかった街かもしれない。シャーロットのダウンタウンはとても小さく、高層ビルも数えるほどしかない。一方で建物や道路はとても新しく、また建設中のビルも多数あり、ビジネスの街として発展途上にあるという印象をもった。
それにしてもほとんど人通りがなく、かと言って身の危険を感じるような雰囲気は全くない。街全体が清潔で、人工的で、無機質なのである。駐車場の前に立っていた係の人に聞いてみたところ「今日は日曜だから店はほとんど閉まっていているんだ。平日はもっと人で賑わっているよ」とのこと。
シャーロットはこれまで訪れた米国のどの街とも違っている。翌朝にはアトランタに向けて発ってしまったのだが、こういうガイドにものっていない街に立ち寄って肌で雰囲気を感じることができるのはドライブ旅行の特権かもしれない。
それにしてもほとんど人通りがなく、かと言って身の危険を感じるような雰囲気は全くない。街全体が清潔で、人工的で、無機質なのである。駐車場の前に立っていた係の人に聞いてみたところ「今日は日曜だから店はほとんど閉まっていているんだ。平日はもっと人で賑わっているよ」とのこと。
シャーロットはこれまで訪れた米国のどの街とも違っている。翌朝にはアトランタに向けて発ってしまったのだが、こういうガイドにものっていない街に立ち寄って肌で雰囲気を感じることができるのはドライブ旅行の特権かもしれない。
Monday, June 14, 2004
D.C. (4)
第二次世界大戦における日系アメリカ人の苦悩、抑圧、犠牲を鎮め、勇敢な行動を称えるために建てられた記念碑を訪れる。記念碑は小さな公園のように街の中に溶け込んでおり、僕たち以外に観光客は見当たらない。中央には、鉄条網でかんじがらめに縛られて苦しそうな二羽の鶴の像が建てられている。彼らの深い苦しみが凝縮されているこの像は言葉を必要としない。
当時の日系アメリカ人の多くは(想像に難くないが)日系であるという人種的事実だけで不当な扱いを受けた。これらの行為に対する米国政府の謝罪の言葉が記念碑の壁に以下のように刻まれている。"Here we admit a wrong. Here we affirm our commitment as a nation to equal justice under the law" 署名を見るとこの言葉が発せられたのは1988年、言葉の主は何とあのロナルド・レーガンである。レーガンの国葬という特別な日の翌日に、このDCという場所で、当事者の立場からこの謝罪文を読んだ日本人が他にいるだろうか。運命の偶然にしばし言葉を失う。
また日系アメリカ人の中には志願して戦地に赴き、アメリカのために勇敢に戦い、散っていった人も多数いたそうだ。象徴的な彼らの言葉もいくつか壁に刻まれている。「私は日本人を祖先にもつアメリカ人であることに誇りをもっています。私はアメリカの制度、理想、伝統、そしてその未来を信じます」「私はアメリカの民主主義に対する脅威が、アメリカンドリームに対する脅威であり、世界中の全ての自由な人々に対する脅威であると信じます」「私はこの記念碑が、民主主義に対する強い信念を失わず、不屈の精神を持ち続けた市民の証となることを願います」
あのホロコーストを生み出した狂気のナチスドイツとさえ手を組み、第二次大戦に参戦し、真珠湾攻撃をしかけた日本。もしあの戦争でドイツと日本が勝利していたら、今の世界は一体どんな姿だっただろうか。少なくとも民主主義という現代社会の基盤をなすシステムの普及には相当の時間がかかっただろう。世界の至るところで北朝鮮のような専制君主による恐怖政治が未だに続いていたかもしれない。僕がハノーバーという平和な街で世界各国の友人たちと友情を育みながらともに学ぶなどということが果たして可能だっただろうか。
僕はブッシュ政権の孤立主義に対してはいつも眉をしかめている。彼こそが悪の枢軸だと思うこともある。一方で、これまでアメリカが錦の御旗として一貫して掲げてきた民主主義という理想を守ることの重要性は否定できない。この記念碑を訪れて多少の混乱を覚えた自分の頭の中でたどり着いた結論は「民主主義は我々現代人が拠って立つ重要不可欠なシステムである。しかし発展段階の異なる国や地域にそれを強要することは誰にもできない。イラクや北朝鮮のように異質な社会システムを持ち、民主主義に脅威を与える国に対する対応は国連の決議によってのみ正当化されうる」というごく当たり前のものである。
最近ブッシュ大統領が「日本は国連の常任理事国になるべきだ」という発言をした。これは額面通りには受け取れない。国際政治の舞台で自らの意見を持たない日本が常任理事国入りすることは米国覇権主義を助長する可能性があり、危険でさえあると感じる。中国、ロシア、フランスという異なる個性を持つ国々を含めて、国際世論の合意を形成できないような軍事行動は正当化されるべきではない。国際世論の支持なしに現代の混沌とした社会を安定化させることなど不可能である。
そんなことをあれこれ考えながら、次の目的地フォード劇場へ向かう。フォード劇場は第16代大統領リンカーンが暗殺された場所である。DCではほぼ全ての観光スポットが無料で公開されているのだが、このフォード劇場も無料で入場できる上に、定期的にスタッフが20分程度のガイドをしてくれる。入場者は実際に劇場の席に座り、リンカーンが暗殺された右上方の桟敷席を見上げる形となる。桟敷席の両側にはアメリカ国旗が吊るされ、当時の様子がほぼそのまま再現されている。
ガイドの人がとても臨場感のあるドラマチックな話し方をするので、思わず乗り出して固唾を飲む。暗殺者の名前はブースと言い、彼は当時トップクラスの人気を誇る俳優だったそうだ。「こういう言い方はどうでしょう。この中でトム・クルーズやブラッド・ピットを知っている人はどのくらいいますか?」子供たちも含めてほとんど全員が手をあげる。「当時ブースについて同じ質問をしたら、同じような反応があったはずです。それほどブースは有名な俳優だった訳です」
「しかし彼は俳優である以上に、南部出身の政治的な強い思想を持った人間でした。彼は奴隷制度を強く支持し、神から授けられた最高のシステムと信じ、南部を滅茶苦茶にしたリンカーンにその責任があると考えたのです」「彼は1865年に二度リンカーンの誘拐を企てましたが、二度とも現れるはずのリンカーンが現れず未遂に終わりました。そこで彼の計画は更にエスカレートし、暗殺に変わっていったのです。リンカーンがフォード劇場に観劇に来るというニュースを聞いたとき、彼はこれ以上の機会はないと考えました。俳優として劇場へは顔パスで入れる上に、劇場の構造、劇そのものの進行にとても精通していたからです」
ブースが綿密に計画を練り、事前準備を行ったこと。急な仕事で予定よりも遅れて到着したリンカーン大統領を観衆が熱狂的な拍手で迎え、大統領もそれに手をふって応えながら席についたこと。劇が一番盛り上がり、観客が大笑いする瞬間を見計らってブースが背後からリンカーンに迫り、至近距離から頭部に銃弾を撃ち込み、更にナイフで切りつけたこと。ブースが桟敷席から舞台へ飛び降り、観客に向かって「これが独裁者の運命だ」と叫び、舞台裏に用意しておいた馬で逃走したこと。泣き叫ぶ大統領夫人、パニックになる観客、ブースを追いかける軍人たち。手に汗握るガイドの解説から、片時も目と耳を離せない。
結局致命傷を負ったリンカーンは病院までもたないと判断され、通りを挟んだ向かい側の宿、ピーターセン・ハウスへ収容される。翌朝息をひきとった寝室も一般に公開されている。一方のブースも数日後、数十マイル南の民家にかくまわれているところを包囲され、投降を拒否したために軍隊によって射殺される。
最後にガイドが「このような米国の歴史上、最も悲劇的な事件が起きたのがこの劇場なのですが、その悲劇ばかりでなく、第16代大統領リンカーンが成し遂げた素晴らしい功績にも是非目を向けて下さい」という結びで説明が終了となる。大きな拍手をする来場者たち。記念館、博物館の解説は、概して間延びしたり、つまらなかったりで、早く終わらないかなとそわそわする人が多い中、この大きな拍手は彼の解説が素晴らしかったことの証明だろう。
その後、地下の小さな博物館を簡単に一周したのだが、一つだけショッキングな展示が目に止まった。よく読まないと見過ごしてしまうところだったが、リンカーンが暗殺された当時着ていた衣服とともに、破られた袖の一部が展示されていた。当時偉大な人が暗殺された現場では、衣服や所持品などを記念品として奪い、持ち帰ることが流行していたというのである。僅か140年前、南北戦争直後のアメリカでは、そんな野蛮な行為がまだ横行していたのである。
ハノーバーを発ってから1週間。米国東部歴史探訪の旅は当初の期待通り素晴らしい経験となっている。今週は更に南へ向かい(ジョージア、アラバマ)、南部の視点から見た南北戦争や、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア氏とその公民権活動について辿る旅となる。
当時の日系アメリカ人の多くは(想像に難くないが)日系であるという人種的事実だけで不当な扱いを受けた。これらの行為に対する米国政府の謝罪の言葉が記念碑の壁に以下のように刻まれている。"Here we admit a wrong. Here we affirm our commitment as a nation to equal justice under the law" 署名を見るとこの言葉が発せられたのは1988年、言葉の主は何とあのロナルド・レーガンである。レーガンの国葬という特別な日の翌日に、このDCという場所で、当事者の立場からこの謝罪文を読んだ日本人が他にいるだろうか。運命の偶然にしばし言葉を失う。
また日系アメリカ人の中には志願して戦地に赴き、アメリカのために勇敢に戦い、散っていった人も多数いたそうだ。象徴的な彼らの言葉もいくつか壁に刻まれている。「私は日本人を祖先にもつアメリカ人であることに誇りをもっています。私はアメリカの制度、理想、伝統、そしてその未来を信じます」「私はアメリカの民主主義に対する脅威が、アメリカンドリームに対する脅威であり、世界中の全ての自由な人々に対する脅威であると信じます」「私はこの記念碑が、民主主義に対する強い信念を失わず、不屈の精神を持ち続けた市民の証となることを願います」
あのホロコーストを生み出した狂気のナチスドイツとさえ手を組み、第二次大戦に参戦し、真珠湾攻撃をしかけた日本。もしあの戦争でドイツと日本が勝利していたら、今の世界は一体どんな姿だっただろうか。少なくとも民主主義という現代社会の基盤をなすシステムの普及には相当の時間がかかっただろう。世界の至るところで北朝鮮のような専制君主による恐怖政治が未だに続いていたかもしれない。僕がハノーバーという平和な街で世界各国の友人たちと友情を育みながらともに学ぶなどということが果たして可能だっただろうか。
僕はブッシュ政権の孤立主義に対してはいつも眉をしかめている。彼こそが悪の枢軸だと思うこともある。一方で、これまでアメリカが錦の御旗として一貫して掲げてきた民主主義という理想を守ることの重要性は否定できない。この記念碑を訪れて多少の混乱を覚えた自分の頭の中でたどり着いた結論は「民主主義は我々現代人が拠って立つ重要不可欠なシステムである。しかし発展段階の異なる国や地域にそれを強要することは誰にもできない。イラクや北朝鮮のように異質な社会システムを持ち、民主主義に脅威を与える国に対する対応は国連の決議によってのみ正当化されうる」というごく当たり前のものである。
最近ブッシュ大統領が「日本は国連の常任理事国になるべきだ」という発言をした。これは額面通りには受け取れない。国際政治の舞台で自らの意見を持たない日本が常任理事国入りすることは米国覇権主義を助長する可能性があり、危険でさえあると感じる。中国、ロシア、フランスという異なる個性を持つ国々を含めて、国際世論の合意を形成できないような軍事行動は正当化されるべきではない。国際世論の支持なしに現代の混沌とした社会を安定化させることなど不可能である。
そんなことをあれこれ考えながら、次の目的地フォード劇場へ向かう。フォード劇場は第16代大統領リンカーンが暗殺された場所である。DCではほぼ全ての観光スポットが無料で公開されているのだが、このフォード劇場も無料で入場できる上に、定期的にスタッフが20分程度のガイドをしてくれる。入場者は実際に劇場の席に座り、リンカーンが暗殺された右上方の桟敷席を見上げる形となる。桟敷席の両側にはアメリカ国旗が吊るされ、当時の様子がほぼそのまま再現されている。
ガイドの人がとても臨場感のあるドラマチックな話し方をするので、思わず乗り出して固唾を飲む。暗殺者の名前はブースと言い、彼は当時トップクラスの人気を誇る俳優だったそうだ。「こういう言い方はどうでしょう。この中でトム・クルーズやブラッド・ピットを知っている人はどのくらいいますか?」子供たちも含めてほとんど全員が手をあげる。「当時ブースについて同じ質問をしたら、同じような反応があったはずです。それほどブースは有名な俳優だった訳です」
「しかし彼は俳優である以上に、南部出身の政治的な強い思想を持った人間でした。彼は奴隷制度を強く支持し、神から授けられた最高のシステムと信じ、南部を滅茶苦茶にしたリンカーンにその責任があると考えたのです」「彼は1865年に二度リンカーンの誘拐を企てましたが、二度とも現れるはずのリンカーンが現れず未遂に終わりました。そこで彼の計画は更にエスカレートし、暗殺に変わっていったのです。リンカーンがフォード劇場に観劇に来るというニュースを聞いたとき、彼はこれ以上の機会はないと考えました。俳優として劇場へは顔パスで入れる上に、劇場の構造、劇そのものの進行にとても精通していたからです」
ブースが綿密に計画を練り、事前準備を行ったこと。急な仕事で予定よりも遅れて到着したリンカーン大統領を観衆が熱狂的な拍手で迎え、大統領もそれに手をふって応えながら席についたこと。劇が一番盛り上がり、観客が大笑いする瞬間を見計らってブースが背後からリンカーンに迫り、至近距離から頭部に銃弾を撃ち込み、更にナイフで切りつけたこと。ブースが桟敷席から舞台へ飛び降り、観客に向かって「これが独裁者の運命だ」と叫び、舞台裏に用意しておいた馬で逃走したこと。泣き叫ぶ大統領夫人、パニックになる観客、ブースを追いかける軍人たち。手に汗握るガイドの解説から、片時も目と耳を離せない。
結局致命傷を負ったリンカーンは病院までもたないと判断され、通りを挟んだ向かい側の宿、ピーターセン・ハウスへ収容される。翌朝息をひきとった寝室も一般に公開されている。一方のブースも数日後、数十マイル南の民家にかくまわれているところを包囲され、投降を拒否したために軍隊によって射殺される。
最後にガイドが「このような米国の歴史上、最も悲劇的な事件が起きたのがこの劇場なのですが、その悲劇ばかりでなく、第16代大統領リンカーンが成し遂げた素晴らしい功績にも是非目を向けて下さい」という結びで説明が終了となる。大きな拍手をする来場者たち。記念館、博物館の解説は、概して間延びしたり、つまらなかったりで、早く終わらないかなとそわそわする人が多い中、この大きな拍手は彼の解説が素晴らしかったことの証明だろう。
その後、地下の小さな博物館を簡単に一周したのだが、一つだけショッキングな展示が目に止まった。よく読まないと見過ごしてしまうところだったが、リンカーンが暗殺された当時着ていた衣服とともに、破られた袖の一部が展示されていた。当時偉大な人が暗殺された現場では、衣服や所持品などを記念品として奪い、持ち帰ることが流行していたというのである。僅か140年前、南北戦争直後のアメリカでは、そんな野蛮な行為がまだ横行していたのである。
ハノーバーを発ってから1週間。米国東部歴史探訪の旅は当初の期待通り素晴らしい経験となっている。今週は更に南へ向かい(ジョージア、アラバマ)、南部の視点から見た南北戦争や、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア氏とその公民権活動について辿る旅となる。
Friday, June 11, 2004
D.C. (3)
朝の10時半頃、レーガン元大統領の棺が国会議事堂からIndependence Avenueを通ってワシントン大聖堂へ向かうことになっており、Independence Avenueの近くに車を止め、最後の見送りをする人々と一緒に通りの両脇に陣取る。通り沿いには無数の警官が等間隔に並んで直立不動の姿勢を取っている。昨日までのうだるような暑さとはうってかわって今日は上着を着込まなければじっとしていられないくらい寒く、10時過ぎからは雨も降り出した。涙雨である。
ほどなくパトカーの先導で10台程度の黒いリムジンが目の前を通り過ぎていく。一斉に敬礼の姿勢をとる警察官たち。車列は意外にあっけなく通り過ぎ、三々五々、散っていく一般客たち。結局どの車に棺が乗せられているのかは分からなかった。
1週間続いたマスコミによるRemembering Reaganキャンペーンもこれで一段落となるだろう。うがった見方の中には、大統領選挙で共和党のブッシュ現大統領に多少のおこぼれ(Spillover)があるだろうというコメントもあったが、大勢としては今回の国葬が党派や宗教、国境を越え、全ての人々が一体感を持てた素晴らしい儀式であったという論調のようである。
また長いセレモニーを通じたナンシー夫人の毅然とした態度が賞賛、感動を呼び、ファーストレディーとして彼女が成し遂げた業績にも多くの時間が割かれていた。就任時からレーガン夫妻と間近で接してきたCNNの記者の一人は「これで漸くナンシー夫人は家に帰り、テレビや電話を消し、ゆっくりと休むことができるでしょう」と労いの言葉を送っていた。既に肉体的には衰えが著しいナンシー夫人であったが、僕の目から見ても、セレモニーを通じて彼女が見せた品格、しっかりと前を見据える目の力強さは素晴らしいものだった。
午後はホロコースト記念博物館へ向かう。この歴史上類をみない凄惨な出来事については映画「シンドラーのリスト」や「Life is beautiful」等を通じて認識していたつもりだが、「なぜ」という疑問が自分の中で解消されていなかったので、DCでも注目度が高いと言われるこの記念館を訪れる。
博物館は4階から順に下へ降りていく順路になっている。4階では「ナチスの暴力(Nazi Assault)」というテーマでヒトラーがどのように権力を握り、影響力を強めていったか、3階では「最終的な答え(Final Solution)」というテーマでナチスが考え出したホロコーストという行為のディテールについて、2階では「最終章(Last Chapter)」というテーマで戦後に解放された収容所で連合軍の兵士が目の当たりにした現実について、それぞれ写真、映像、実物、説明文を交えて実証している。
ホロコーストという行為の残虐性そのものよりも、そこに至る過程を理解したいという意味で、4階の展示は非常に興味深く、一つ一つのパネル、展示物を丁寧に読んで歩く。発端は第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約においてドイツが厳しい制裁を受け、その結果経済の低迷、失業の増加という社会不安に陥ったことであり、この不当な条約を是正すべきという世論の高まりがヒトラーという怪物を生み出す温床となる。その後、ヒトラーは感情を前面に押し出した巧みなプロパガンダで民衆の心をつかみ、大統領選挙では後塵を拝したものの、当時の大統領もヒトラーの影響力を無視できず、首相に任命してしまう。その後、ヒトラーは徐々に勢力を強め、政敵を徹底的に排除し、恐怖政治を基盤として独裁政権を築いていく。
ホロコーストの原点はこの政敵の徹底的な排除、容赦ない虐殺にある。その後、ゲルマンが優越的民族(Superior)、その他が劣等民族(Inferior)という信念を拡大し、全国民の目や髪の色、骨格等を事細かに計り「純粋な」ドイツ人、「純粋に近い」ドイツ人、ユダヤ人、といった分類を徹底的に行う。この国民台帳が後にホロコーストで利用され、多くのユダヤ人が虐殺される根拠となる。またドイツ人が世界で最も優れた民族として繁栄するために、身体的または精神的に障害を負ったドイツ人を(子供も含めて)次々に虐殺していく様は完全に常軌を逸している。これにより「真に優れた」ドイツ人のみ再生産するという持論を実行した訳である。
これと前後してユダヤ人に対する本格的な攻撃が始まる。ユダヤ人がヨーロッパ各国で様々な分野で優れた才能を発揮し、富を蓄積する一方、ヒトラーは彼らを「ドイツ人から搾取し、民族を汚す存在」として忌み嫌い、経済的に弱体化させるためビジネスの世界から締め出し、子供たちも学校教育から排除する政策をとった。最終的にはゲットーと呼ばれる収容所に隔離し、小さな貨物列車にすし詰めにしてアウシュビッツなどの虐殺施設へと送り込んでいく。
特に胸がつまるのは、多くのユダヤの人たちが「ゲットーではより良い生活が待っている」という言葉を信じて疑わず列車に乗り込み、「虱を洗い流して体を綺麗にするためにシャワーを浴びなさい」という言葉さえ信じて施設へ誘導されていったという事実である。このホロコースト博物館には、人間が本質的に持っている狂気、危うさの極みが凝縮されていた。
その後、車でホテルへ戻る途中、ホテルの目の前にあるファーストフード店でテイクアウトの注文をする。実はこちらへ来てから分かったことなのだが、僕が宿をとったDCの南東部は、パトカーのサイレンがひっきりなしに鳴り続き、昼でも公園にたむろするホームレスの人々が不穏な空気を漂わせている特に治安の悪い地域であった。幸いホテルの駐車場が地下にあり、鍵がなければ開閉できないので、車で移動する分には最低限の注意を怠らなければ大きな問題はない。ただ驚いたのはこのファーストフード店のカウンターが全て防弾ガラスで覆われており、お金や商品のやり取りがこのガラス越しに行われていたことである。
銀行やタクシーで見たことはあるが、ファーストフード店でこれほど徹底した安全対策が施されているのは見たことがない。この地域で拳銃による犯罪が多いという証明だろう。まだ外は明るい時間だったので、本格的な身の危険は感じずに済んだのだが、角の見えないところに座っていた危ない人が僕に向かって大声で執拗に話しかけてきたときには一瞬緊張感が走った。あまり動じないように軽く笑顔で応じつつ、目は合わせず、商品を受け取るとすぐに外へ出る。
なるべく節約するために、都会以外では安いホテルに泊まろうと考えていたのだが、こういう状況を目の当たりにして、妻と相談の上、予定を変更。まずはガイドで立地状況、治安を確認した上でホテルを選び、治安の悪い都市では高級ホテルも止む無しという結論に至る。夜は早速情報収集に取り掛かり、これから向かうアトランタ(ジョージア州)、モントゴメリー(アラバマ州)のホテルをインターネットで予約する。その次に向かうニューオリンズ(ルイジアナ州)は全米でも指折りの治安の悪い都市ということで、もう少し時間をかけて作戦を練る必要がある。
ほどなくパトカーの先導で10台程度の黒いリムジンが目の前を通り過ぎていく。一斉に敬礼の姿勢をとる警察官たち。車列は意外にあっけなく通り過ぎ、三々五々、散っていく一般客たち。結局どの車に棺が乗せられているのかは分からなかった。
1週間続いたマスコミによるRemembering Reaganキャンペーンもこれで一段落となるだろう。うがった見方の中には、大統領選挙で共和党のブッシュ現大統領に多少のおこぼれ(Spillover)があるだろうというコメントもあったが、大勢としては今回の国葬が党派や宗教、国境を越え、全ての人々が一体感を持てた素晴らしい儀式であったという論調のようである。
また長いセレモニーを通じたナンシー夫人の毅然とした態度が賞賛、感動を呼び、ファーストレディーとして彼女が成し遂げた業績にも多くの時間が割かれていた。就任時からレーガン夫妻と間近で接してきたCNNの記者の一人は「これで漸くナンシー夫人は家に帰り、テレビや電話を消し、ゆっくりと休むことができるでしょう」と労いの言葉を送っていた。既に肉体的には衰えが著しいナンシー夫人であったが、僕の目から見ても、セレモニーを通じて彼女が見せた品格、しっかりと前を見据える目の力強さは素晴らしいものだった。
午後はホロコースト記念博物館へ向かう。この歴史上類をみない凄惨な出来事については映画「シンドラーのリスト」や「Life is beautiful」等を通じて認識していたつもりだが、「なぜ」という疑問が自分の中で解消されていなかったので、DCでも注目度が高いと言われるこの記念館を訪れる。
博物館は4階から順に下へ降りていく順路になっている。4階では「ナチスの暴力(Nazi Assault)」というテーマでヒトラーがどのように権力を握り、影響力を強めていったか、3階では「最終的な答え(Final Solution)」というテーマでナチスが考え出したホロコーストという行為のディテールについて、2階では「最終章(Last Chapter)」というテーマで戦後に解放された収容所で連合軍の兵士が目の当たりにした現実について、それぞれ写真、映像、実物、説明文を交えて実証している。
ホロコーストという行為の残虐性そのものよりも、そこに至る過程を理解したいという意味で、4階の展示は非常に興味深く、一つ一つのパネル、展示物を丁寧に読んで歩く。発端は第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約においてドイツが厳しい制裁を受け、その結果経済の低迷、失業の増加という社会不安に陥ったことであり、この不当な条約を是正すべきという世論の高まりがヒトラーという怪物を生み出す温床となる。その後、ヒトラーは感情を前面に押し出した巧みなプロパガンダで民衆の心をつかみ、大統領選挙では後塵を拝したものの、当時の大統領もヒトラーの影響力を無視できず、首相に任命してしまう。その後、ヒトラーは徐々に勢力を強め、政敵を徹底的に排除し、恐怖政治を基盤として独裁政権を築いていく。
ホロコーストの原点はこの政敵の徹底的な排除、容赦ない虐殺にある。その後、ゲルマンが優越的民族(Superior)、その他が劣等民族(Inferior)という信念を拡大し、全国民の目や髪の色、骨格等を事細かに計り「純粋な」ドイツ人、「純粋に近い」ドイツ人、ユダヤ人、といった分類を徹底的に行う。この国民台帳が後にホロコーストで利用され、多くのユダヤ人が虐殺される根拠となる。またドイツ人が世界で最も優れた民族として繁栄するために、身体的または精神的に障害を負ったドイツ人を(子供も含めて)次々に虐殺していく様は完全に常軌を逸している。これにより「真に優れた」ドイツ人のみ再生産するという持論を実行した訳である。
これと前後してユダヤ人に対する本格的な攻撃が始まる。ユダヤ人がヨーロッパ各国で様々な分野で優れた才能を発揮し、富を蓄積する一方、ヒトラーは彼らを「ドイツ人から搾取し、民族を汚す存在」として忌み嫌い、経済的に弱体化させるためビジネスの世界から締め出し、子供たちも学校教育から排除する政策をとった。最終的にはゲットーと呼ばれる収容所に隔離し、小さな貨物列車にすし詰めにしてアウシュビッツなどの虐殺施設へと送り込んでいく。
特に胸がつまるのは、多くのユダヤの人たちが「ゲットーではより良い生活が待っている」という言葉を信じて疑わず列車に乗り込み、「虱を洗い流して体を綺麗にするためにシャワーを浴びなさい」という言葉さえ信じて施設へ誘導されていったという事実である。このホロコースト博物館には、人間が本質的に持っている狂気、危うさの極みが凝縮されていた。
その後、車でホテルへ戻る途中、ホテルの目の前にあるファーストフード店でテイクアウトの注文をする。実はこちらへ来てから分かったことなのだが、僕が宿をとったDCの南東部は、パトカーのサイレンがひっきりなしに鳴り続き、昼でも公園にたむろするホームレスの人々が不穏な空気を漂わせている特に治安の悪い地域であった。幸いホテルの駐車場が地下にあり、鍵がなければ開閉できないので、車で移動する分には最低限の注意を怠らなければ大きな問題はない。ただ驚いたのはこのファーストフード店のカウンターが全て防弾ガラスで覆われており、お金や商品のやり取りがこのガラス越しに行われていたことである。
銀行やタクシーで見たことはあるが、ファーストフード店でこれほど徹底した安全対策が施されているのは見たことがない。この地域で拳銃による犯罪が多いという証明だろう。まだ外は明るい時間だったので、本格的な身の危険は感じずに済んだのだが、角の見えないところに座っていた危ない人が僕に向かって大声で執拗に話しかけてきたときには一瞬緊張感が走った。あまり動じないように軽く笑顔で応じつつ、目は合わせず、商品を受け取るとすぐに外へ出る。
なるべく節約するために、都会以外では安いホテルに泊まろうと考えていたのだが、こういう状況を目の当たりにして、妻と相談の上、予定を変更。まずはガイドで立地状況、治安を確認した上でホテルを選び、治安の悪い都市では高級ホテルも止む無しという結論に至る。夜は早速情報収集に取り掛かり、これから向かうアトランタ(ジョージア州)、モントゴメリー(アラバマ州)のホテルをインターネットで予約する。その次に向かうニューオリンズ(ルイジアナ州)は全米でも指折りの治安の悪い都市ということで、もう少し時間をかけて作戦を練る必要がある。
D.C. (2)
モールと呼ばれるDCの中心街にロナルド・レーガン・ビルディングという建物があり、偶然にもこの1階にビジターセンターが設置されている。DCの観光地情報を集めるためにまずここへ向かったのだが、この建物自体が喪に服すように黒いカーテンで覆われており、周囲にはレーガン元大統領の思い出の写真が掲げられている。
議事堂(US Capitol)では昨日から24時間休みなく一般市民の弔問を受け付けているというニュースを昨晩見ていたのだが、ビジターセンターの係の人によると「棺までたどり着くのに3時間以上」とのこと。この炎天下3時間はとても並べないので、そちらは夜に訪問することにして、市内の観光を優先する。
まずはリンカーン・メモリアルへ向かったのだが、この辺りの道路がかなり入り組んでいる上に標識が不親切で非常に分かりづらい。リンカーン・メモリアルの近くまでたどり着いて駐車スペースを探している間にいつの間にか橋をアーリントン側へ渡ってしまった。仕方がないので予定を変更してアーリントン墓地を先に訪れる。
南部の英雄リー将軍が住んでいたというアーリントンハウスから広がる広大な墓地にはJFKも眠っている。JFKの暗殺直後にジャクリーン夫人が灯したと言われる永遠の炎(Eternal Flame)は今も決して消えることなく墓石の後ろに灯っており、1994年に亡くなったジャクリーン夫人の墓石も寄り添うように並んでいる。また墓石の前には円状の広いスペースが確保され、壁面にはJFKの名言が刻まれている。DCの街を一望できる一等地に眠るJFKは今でもアメリカ国民に圧倒的な存在感を誇っている。アーリントン墓地の中でも最も多くの人々が訪れる場所だそうだ。
無名戦士の墓(Tomb of the Unknowns)はこれまでの多くの戦争で身元が確認できなかった戦死者が埋葬されているそうだ。墓石の前では24時間体制で衛兵が警備しているのだが、僕たちが訪れた午後6時にはちょうど衛兵交代の儀式が行われていた。その場の張りつめた雰囲気、衛兵のいかにも軍人らしい規則正しい動き、張りのある掛け声に、集まった一般客も思わず固唾を飲んで見守る。
その後、少し離れたところにある硫黄島記念碑へ車で移動する。石に刻まれている文字を読む限り、どうやら全ての戦争で亡くなった兵士を弔う記念碑という位置づけのようだが、この像自体は太平洋戦争の最中、日米領土の中間点である硫黄島で激戦の末、米国が勝利し、最後の気力を振り絞った米兵たちが勝利の証として星条旗を押し立てようとしている姿が表現されている。Marine Corps War Memorialという名のこの戦争記念碑の象徴として硫黄島の光景が使われている訳である。
記念碑の説明によると、米国側にも多くの犠牲者が出た一方、2万人以上いた硫黄島の日本兵の中で生き残ったのは僅か1100名と記されている。想像以上に大きく、見るものを圧倒するこの記念碑の前に座り、しばしこの意味するところについて思いに耽る。95%の兵士が戦死したという事実は、硫黄島の戦いの想像を絶する凄まじさ、日本軍の徹底的な抗戦ぶりを表している。既に敗戦が濃厚となりながら、それでも命をかけて戦った彼らの心境とは一体どんなものだったのだろうか。彼らが命をかけて守ろうとした日本という国、家族、その子孫たちは、僅か数十年の間に世界に冠たる経済大国を創りあげ、その繁栄は今も続いている。その因果関係は僕の中ではまだ整理がつかない。
それにしても米国という国の歴史は戦争でのみ語られると言っても過言ではない。入植後のインディアンとの戦い、18世紀の独立戦争、19世紀の南北戦争、20世紀の第一次、第二次大戦、その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など、数多くの戦争に関与し、その多くが記念碑として残され、武勇伝として語り継がれている。またリンカーンが1863年に奴隷解放を宣言した後も、長きに渡って人種差別を容認してきた国でもある(それは現在でも様々な形でこの国に傷跡を残している)。表の顔と裏の顔。この国が世界に残した輝かしい功績、華やかな繁栄とは裏腹に、歴史が語る事実、内側から見る暗部はあまりにも残酷である。
リンカーン・メモリアルはギリシャ神殿かと見まがうほど美しく、荘厳な建物であり、その中心部にガウンを纏ったリンカーンがどっしりと腰を据えている。映画や写真で見たことはあったが、実際にこのリンカーン像を目の前にすると、その迫力に圧倒され、しばし呆然と立ち尽くしてしまった。目には何とも言えぬ力があり、その視線は直線上にあるワシントン記念塔、国会議事堂に睨みをきかせている。その間に妨げとなる建物を建てないという発想、構造はとても創造的で、リンカーンに対するアメリカ国民の最大限の敬意が感じられる。リンカーンの目線から一直線に伸びる議事堂までの風景は思わずため息が出るほど美しい。
ここリンカーン・メモリアルでは1963年にマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが"I have a dream"の演説を行った場所としても有名である。マーチン・ルーサー・キング・ジュニアについては、DVD等である程度予備知識を得ているのだが、これから向かうジョージア、アラバマでその足跡を辿ってみたい。
余談のようになってしまったが、午後10時頃到着した国会議事堂前は、最後にレーガンを一目見ようという人だかりで立錐の余地もない。周囲は路上駐車の車で溢れており、僕たちが漸く駐車スペースを見つけられたのは議事堂からツーブロック北の路上だった。警備にあたっていた警察官が「12時間待ちだ」と言っていたのでほとんど諦めていたのだが、それを聞いても意に介さず列に向かっていこうとする人たちの気合いに後押しされて取りあえず歩を進める。
結局12時間は大袈裟だったのだが、実際6時間以上待つということが判明、僕と妻は弔問を諦める。それにしても朝の4時過ぎまで立ったまま列に並んでまでレーガンの棺を一目見たいというアメリカ人の心意気には正直感心した。ただ沈んだ追悼ムード一色というよりは、一つのお祭りとして楽しんでいるかのような雰囲気もあり、やはり93歳という大往生のレーガンの葬儀はJFKのそれとはかなり違うようだ(昨晩のニュースによると93歳のレーガンは元大統領としては史上最高齢での他界、一方最年少は46歳のJFKである)。金曜日には国葬が行われ、棺は議事堂から北西部のワシントン大聖堂(National Cathedral)まで運ばれる。
議事堂(US Capitol)では昨日から24時間休みなく一般市民の弔問を受け付けているというニュースを昨晩見ていたのだが、ビジターセンターの係の人によると「棺までたどり着くのに3時間以上」とのこと。この炎天下3時間はとても並べないので、そちらは夜に訪問することにして、市内の観光を優先する。
まずはリンカーン・メモリアルへ向かったのだが、この辺りの道路がかなり入り組んでいる上に標識が不親切で非常に分かりづらい。リンカーン・メモリアルの近くまでたどり着いて駐車スペースを探している間にいつの間にか橋をアーリントン側へ渡ってしまった。仕方がないので予定を変更してアーリントン墓地を先に訪れる。
南部の英雄リー将軍が住んでいたというアーリントンハウスから広がる広大な墓地にはJFKも眠っている。JFKの暗殺直後にジャクリーン夫人が灯したと言われる永遠の炎(Eternal Flame)は今も決して消えることなく墓石の後ろに灯っており、1994年に亡くなったジャクリーン夫人の墓石も寄り添うように並んでいる。また墓石の前には円状の広いスペースが確保され、壁面にはJFKの名言が刻まれている。DCの街を一望できる一等地に眠るJFKは今でもアメリカ国民に圧倒的な存在感を誇っている。アーリントン墓地の中でも最も多くの人々が訪れる場所だそうだ。
無名戦士の墓(Tomb of the Unknowns)はこれまでの多くの戦争で身元が確認できなかった戦死者が埋葬されているそうだ。墓石の前では24時間体制で衛兵が警備しているのだが、僕たちが訪れた午後6時にはちょうど衛兵交代の儀式が行われていた。その場の張りつめた雰囲気、衛兵のいかにも軍人らしい規則正しい動き、張りのある掛け声に、集まった一般客も思わず固唾を飲んで見守る。
その後、少し離れたところにある硫黄島記念碑へ車で移動する。石に刻まれている文字を読む限り、どうやら全ての戦争で亡くなった兵士を弔う記念碑という位置づけのようだが、この像自体は太平洋戦争の最中、日米領土の中間点である硫黄島で激戦の末、米国が勝利し、最後の気力を振り絞った米兵たちが勝利の証として星条旗を押し立てようとしている姿が表現されている。Marine Corps War Memorialという名のこの戦争記念碑の象徴として硫黄島の光景が使われている訳である。
記念碑の説明によると、米国側にも多くの犠牲者が出た一方、2万人以上いた硫黄島の日本兵の中で生き残ったのは僅か1100名と記されている。想像以上に大きく、見るものを圧倒するこの記念碑の前に座り、しばしこの意味するところについて思いに耽る。95%の兵士が戦死したという事実は、硫黄島の戦いの想像を絶する凄まじさ、日本軍の徹底的な抗戦ぶりを表している。既に敗戦が濃厚となりながら、それでも命をかけて戦った彼らの心境とは一体どんなものだったのだろうか。彼らが命をかけて守ろうとした日本という国、家族、その子孫たちは、僅か数十年の間に世界に冠たる経済大国を創りあげ、その繁栄は今も続いている。その因果関係は僕の中ではまだ整理がつかない。
それにしても米国という国の歴史は戦争でのみ語られると言っても過言ではない。入植後のインディアンとの戦い、18世紀の独立戦争、19世紀の南北戦争、20世紀の第一次、第二次大戦、その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など、数多くの戦争に関与し、その多くが記念碑として残され、武勇伝として語り継がれている。またリンカーンが1863年に奴隷解放を宣言した後も、長きに渡って人種差別を容認してきた国でもある(それは現在でも様々な形でこの国に傷跡を残している)。表の顔と裏の顔。この国が世界に残した輝かしい功績、華やかな繁栄とは裏腹に、歴史が語る事実、内側から見る暗部はあまりにも残酷である。
リンカーン・メモリアルはギリシャ神殿かと見まがうほど美しく、荘厳な建物であり、その中心部にガウンを纏ったリンカーンがどっしりと腰を据えている。映画や写真で見たことはあったが、実際にこのリンカーン像を目の前にすると、その迫力に圧倒され、しばし呆然と立ち尽くしてしまった。目には何とも言えぬ力があり、その視線は直線上にあるワシントン記念塔、国会議事堂に睨みをきかせている。その間に妨げとなる建物を建てないという発想、構造はとても創造的で、リンカーンに対するアメリカ国民の最大限の敬意が感じられる。リンカーンの目線から一直線に伸びる議事堂までの風景は思わずため息が出るほど美しい。
ここリンカーン・メモリアルでは1963年にマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが"I have a dream"の演説を行った場所としても有名である。マーチン・ルーサー・キング・ジュニアについては、DVD等である程度予備知識を得ているのだが、これから向かうジョージア、アラバマでその足跡を辿ってみたい。
余談のようになってしまったが、午後10時頃到着した国会議事堂前は、最後にレーガンを一目見ようという人だかりで立錐の余地もない。周囲は路上駐車の車で溢れており、僕たちが漸く駐車スペースを見つけられたのは議事堂からツーブロック北の路上だった。警備にあたっていた警察官が「12時間待ちだ」と言っていたのでほとんど諦めていたのだが、それを聞いても意に介さず列に向かっていこうとする人たちの気合いに後押しされて取りあえず歩を進める。
結局12時間は大袈裟だったのだが、実際6時間以上待つということが判明、僕と妻は弔問を諦める。それにしても朝の4時過ぎまで立ったまま列に並んでまでレーガンの棺を一目見たいというアメリカ人の心意気には正直感心した。ただ沈んだ追悼ムード一色というよりは、一つのお祭りとして楽しんでいるかのような雰囲気もあり、やはり93歳という大往生のレーガンの葬儀はJFKのそれとはかなり違うようだ(昨晩のニュースによると93歳のレーガンは元大統領としては史上最高齢での他界、一方最年少は46歳のJFKである)。金曜日には国葬が行われ、棺は議事堂から北西部のワシントン大聖堂(National Cathedral)まで運ばれる。
Wednesday, June 09, 2004
Philadelphia (PA) (3) and D.C. (1)
今日はかなり蒸し暑い。なるべく暑くなる前に南部を通り抜けてしまおうというプランだったのだが、既にフィラデルフィアでこの暑さだと6月と言えどもある程度覚悟しておいた方がいいかもしれない。
午前中はまだ見ていなかったCity Hall Tower、Independence Hall、Liberty Bell Pavilionを駆け足で回る。既に土地勘をつかんでいたフィラデルフィアの街をCity Hall Towerの展望台から見下ろすとなかなか見応えがある。都会にある直線の道としては最も長いというBroad Streetは本当に感嘆するほど長く、フィラデルフィア美術館まで一直線に北西に伸びるBenjamin Franklin Parkwayはやはり壮観である。
見上げると頭上にはウィリアム・ペン像がすぐそこに立っている(残念ながら真上すぎて顔は見えない)。15分おきにガイドの人が無料で展望台まで案内し、丁寧に周囲の景色について説明してくれるのだが、彼によると、ペンが見つめる北東方向にはインディアンの像がやはりこちらを向いて立っているそうだ。これはペンが入植時にインディアンと(搾取ではなく)友好的な条約を結んだことを象徴しており、ペンの左手にはこの時に結んだ条約がしっかりと握られている。
独立宣言が実際に署名されたというIndependence Hallの一室も見応えがあったのだが、フィラデルフィアも三日目となるとそろそろ「独立」もお腹一杯という感じである。昼食を済ませた後は第二の目的地であるワシントンDCへ向かう。
何の因果か、僕たちがホテルに到着するのとほぼ同時にレーガン元大統領の棺がDCに到着した。暗くなる前にDCの街を軽くドライブがてら、ホワイトハウスや議事堂などを眺めて回ろうとしたのだが、中心部へ向かう道はことごとく封鎖されている。それにしても警察官、パトカーの数の多いこと。結局ホワイトハウスに近づくこともできないまま、ぐるっと周囲を一周しただけで、夕食をとってホテルに戻る。
テレビはどこを回してもレーガン一色。棺(Casket)は馬車に先導され、ホワイトハウスからキャピトルヒルの議事堂へ向かって行く。その様子をレストランで夕食を食べながら見ていたが、頭上でごう音が轟いたので、店員さんたちと一緒に何事かと表に出る。すると軍用機の連隊がいくつかに分かれて上空を飛行していく。追悼の意を表す軍隊流の儀式だろうか。
レーガンと言えば1981年から1989年まで二期大統領を務め、米国民の間でもカリスマ的人気を誇った大統領である(ということを今回の一連の報道で実感)。個人的にも物心がついて初めてアメリカなる国の大統領として認識したのがレーガンである。そのレーガン元大統領の葬儀に旅行先のDCで遭遇するというのもありえない話である。金曜日は公共機関は基本的に全て営業停止ということなので、おそらく僕が計画している観光地も機能しないだろう。何か一般客が参列できるような場所があればなかなかない経験なので顔を出してみようと思う。
午前中はまだ見ていなかったCity Hall Tower、Independence Hall、Liberty Bell Pavilionを駆け足で回る。既に土地勘をつかんでいたフィラデルフィアの街をCity Hall Towerの展望台から見下ろすとなかなか見応えがある。都会にある直線の道としては最も長いというBroad Streetは本当に感嘆するほど長く、フィラデルフィア美術館まで一直線に北西に伸びるBenjamin Franklin Parkwayはやはり壮観である。
見上げると頭上にはウィリアム・ペン像がすぐそこに立っている(残念ながら真上すぎて顔は見えない)。15分おきにガイドの人が無料で展望台まで案内し、丁寧に周囲の景色について説明してくれるのだが、彼によると、ペンが見つめる北東方向にはインディアンの像がやはりこちらを向いて立っているそうだ。これはペンが入植時にインディアンと(搾取ではなく)友好的な条約を結んだことを象徴しており、ペンの左手にはこの時に結んだ条約がしっかりと握られている。
独立宣言が実際に署名されたというIndependence Hallの一室も見応えがあったのだが、フィラデルフィアも三日目となるとそろそろ「独立」もお腹一杯という感じである。昼食を済ませた後は第二の目的地であるワシントンDCへ向かう。
何の因果か、僕たちがホテルに到着するのとほぼ同時にレーガン元大統領の棺がDCに到着した。暗くなる前にDCの街を軽くドライブがてら、ホワイトハウスや議事堂などを眺めて回ろうとしたのだが、中心部へ向かう道はことごとく封鎖されている。それにしても警察官、パトカーの数の多いこと。結局ホワイトハウスに近づくこともできないまま、ぐるっと周囲を一周しただけで、夕食をとってホテルに戻る。
テレビはどこを回してもレーガン一色。棺(Casket)は馬車に先導され、ホワイトハウスからキャピトルヒルの議事堂へ向かって行く。その様子をレストランで夕食を食べながら見ていたが、頭上でごう音が轟いたので、店員さんたちと一緒に何事かと表に出る。すると軍用機の連隊がいくつかに分かれて上空を飛行していく。追悼の意を表す軍隊流の儀式だろうか。
レーガンと言えば1981年から1989年まで二期大統領を務め、米国民の間でもカリスマ的人気を誇った大統領である(ということを今回の一連の報道で実感)。個人的にも物心がついて初めてアメリカなる国の大統領として認識したのがレーガンである。そのレーガン元大統領の葬儀に旅行先のDCで遭遇するというのもありえない話である。金曜日は公共機関は基本的に全て営業停止ということなので、おそらく僕が計画している観光地も機能しないだろう。何か一般客が参列できるような場所があればなかなかない経験なので顔を出してみようと思う。
Philadelphia (PA) (2)
今日は旅行期間中のインターネット接続環境の確保に追われた。日本のAOLアカウントは一応持っていて、以前も旅行先ではこのアカウントで近くのアクセスポイントに接続していたのだが、どうしても認証ではじかれてしまう。またなぜか唯一ボストンのアクセスポイントだけは接続できるのだが、いちいちホテルから長距離電話でボストンにつないでいては、せっかく日々節約をしても膨大な電話料金の請求であっと言う間に予算が底をついてしまいかねない。
仕方がないので2ヶ月だけでもアメリカのAOLに加入しようとウェブサイトを眺めていると、2ヶ月間無料お試しOKの文字が目に止まり「まさに僕のためにあるサービス」と即サインアップ。しかしどうやらAOLの専用ソフトをダウンロードしない限り登録、利用できないようで、そうなると26Mという膨大なデータをどこか高速回線の使える環境で落とさなければならない。
そこでダウンタウンのKINKO’Sへ行って尋ねたところ「T1回線は使えるが持ち込みのラップトップは利用できない。ラップトップを使いたいなら56Kのダイヤルアップか(問題外)、無線LANになる」とのこと。もちろん「無線LANで」と即答したのだが、よく聞いてみるとT-Mobileが提供するホットスポットサービスの「利用可能エリア」に入っているというだけで、僕がサービスに加入していなければ使えないことが判明。「向かいにT-Mobileの店があるからそこで加入してくれば」と薦める店員さん。30分単位くらいで有料で使わせてもらえると思っていただけに「かなり面倒くさい」と思いつつ、やむを得ずT-Mobileへ。
ところがT-Mobileの店員はホットスポットの意味自体をあまり理解していないようで、今度は隣のスターバックスへたらい回しされ、万策尽きたかと途方にくれる。するとスターバックスの親切な女性店員がレジの横に置いてあったパンフレットを見ながら暫く一緒に考えてくれ「うーん、私には難しいわね。ここのフリーダイヤルに電話してみたら?電話貸してあげるから」とわざわざレジの裏から電話を引っ張り出して貸してくれる。「解決しないようだったらまた声をかけてね。分かった?」と仕事に戻っていくお姉さん。感涙。あなたはフィラデルフィアで一番の良い人です。
フリーダイヤルにかけると程なくオペレーターにつながったのだが、スターバックスの店内が騒がしかったのと、オペレーターの声がとても小さかったので、絶望的なほど聞き取れない。何とか気長にコミュニケーションを図りながら、彼女の指示通りPCのセットアップを行う。いろいろ試すこと約10分。漸く無線LANでT-Mobileホットスポットのトップページへつながる。あとはオンラインでサインアップすれば良さそうなので、御礼を言って電話を切る。スターバックスのお姉さんにも「うまくいったよ」と御礼を言い、席を確保しておいたKINKO’Sへ戻る。
そこからT-Mobileの無線LANを使い、AOLのソフトをダウンロード。ほどなく無事AOLのダイヤルアップも開通。これで今回の長期旅行におけるインターネット接続環境はとりあえず確保できたことになる。ホテルからはAOLの無料サービスを使って最寄りのアクセスポイントにダイヤルアップ接続。少し速めの回線が必要なときにはT-Mobileのホットスポットという使い分けになりそうだ。T-Mobileは月39.99ドルとかなりお高いのだが(他にも従量制等いくつかプランがあったがこの定額制を選択)全てダイヤルアップで賄うことの不便さを考えたら十分払うだけの価値はある。
そもそもホットスポットというサービス自体「忙しい都会の営業マンまたは一部のマニア以外誰が使うのか」と懐疑的だったのだが、全米を旅するというかなりレアな僕の需要にぴったりというのは意外な発見だった。利用可能エリアを検索したところ、主な都市ではKINKO’S、スターバックス、ボーダース(本屋)で利用できるようなので、これから立ち寄る多くの都市で活躍してくれそうである。1週間先の宿泊先も決めていない気ままな自由旅行だけに、インターネットが使えなかったらと思うとぞっとする。
夜は予約しておいたLights of Liberty Showに参加。各自ヘッドセット借りた後は、独立当時の服装をしたツアーガイドを先頭に外へ出る。屋外でこれだけの距離を歩いて回る3Dショーというのは初めてである。"as it happened, where it happened"という謳い文句の通り、街の要所を巡りながら、ヘッドセットに流れるナレーションと同期して壁面に独立宣言にまつわる画像が映し出される凝った仕組みである。
ベンジャミン・フランクリンが英国から戻り演説をするシーン(私は英国の政治家であり友人でもある人物に次のような手紙を送った。君は私にとって長年の良き友人だった。しかし今日から君は僕のエネミーだ)や、最後にGod Bless Americaが流れるシーンは迫力があった。ただもう少し劇的な演説を期待していた独立宣言自体が今ひとつ盛り上がりにかけた(淡々と読み上げられていた)のはやや残念だった。比較するのもおかしいが、映画"Independence Day"でエミリオ・エステベスが人類の独立を宣言した演説の方が感動的だった。
またGod Bless Americaが流れた後に拍手喝采する両親と、それを見てマネをする幼い子供を見て「いわゆるアメリカの愛国心」というものが、こうして世代間で受け継がれていくのかと思うと少し複雑な心境になった。アメリカは自由、正義、愛国という大義のもとではしばしば盲目的、排他的になり、客観性を欠いた判断を下す国である。自らが正しいと信じる信念を貫くためには手段を問わないというのが入植、独立当時から綿々と流れる彼らのメンタリティーである。
仕方がないので2ヶ月だけでもアメリカのAOLに加入しようとウェブサイトを眺めていると、2ヶ月間無料お試しOKの文字が目に止まり「まさに僕のためにあるサービス」と即サインアップ。しかしどうやらAOLの専用ソフトをダウンロードしない限り登録、利用できないようで、そうなると26Mという膨大なデータをどこか高速回線の使える環境で落とさなければならない。
そこでダウンタウンのKINKO’Sへ行って尋ねたところ「T1回線は使えるが持ち込みのラップトップは利用できない。ラップトップを使いたいなら56Kのダイヤルアップか(問題外)、無線LANになる」とのこと。もちろん「無線LANで」と即答したのだが、よく聞いてみるとT-Mobileが提供するホットスポットサービスの「利用可能エリア」に入っているというだけで、僕がサービスに加入していなければ使えないことが判明。「向かいにT-Mobileの店があるからそこで加入してくれば」と薦める店員さん。30分単位くらいで有料で使わせてもらえると思っていただけに「かなり面倒くさい」と思いつつ、やむを得ずT-Mobileへ。
ところがT-Mobileの店員はホットスポットの意味自体をあまり理解していないようで、今度は隣のスターバックスへたらい回しされ、万策尽きたかと途方にくれる。するとスターバックスの親切な女性店員がレジの横に置いてあったパンフレットを見ながら暫く一緒に考えてくれ「うーん、私には難しいわね。ここのフリーダイヤルに電話してみたら?電話貸してあげるから」とわざわざレジの裏から電話を引っ張り出して貸してくれる。「解決しないようだったらまた声をかけてね。分かった?」と仕事に戻っていくお姉さん。感涙。あなたはフィラデルフィアで一番の良い人です。
フリーダイヤルにかけると程なくオペレーターにつながったのだが、スターバックスの店内が騒がしかったのと、オペレーターの声がとても小さかったので、絶望的なほど聞き取れない。何とか気長にコミュニケーションを図りながら、彼女の指示通りPCのセットアップを行う。いろいろ試すこと約10分。漸く無線LANでT-Mobileホットスポットのトップページへつながる。あとはオンラインでサインアップすれば良さそうなので、御礼を言って電話を切る。スターバックスのお姉さんにも「うまくいったよ」と御礼を言い、席を確保しておいたKINKO’Sへ戻る。
そこからT-Mobileの無線LANを使い、AOLのソフトをダウンロード。ほどなく無事AOLのダイヤルアップも開通。これで今回の長期旅行におけるインターネット接続環境はとりあえず確保できたことになる。ホテルからはAOLの無料サービスを使って最寄りのアクセスポイントにダイヤルアップ接続。少し速めの回線が必要なときにはT-Mobileのホットスポットという使い分けになりそうだ。T-Mobileは月39.99ドルとかなりお高いのだが(他にも従量制等いくつかプランがあったがこの定額制を選択)全てダイヤルアップで賄うことの不便さを考えたら十分払うだけの価値はある。
そもそもホットスポットというサービス自体「忙しい都会の営業マンまたは一部のマニア以外誰が使うのか」と懐疑的だったのだが、全米を旅するというかなりレアな僕の需要にぴったりというのは意外な発見だった。利用可能エリアを検索したところ、主な都市ではKINKO’S、スターバックス、ボーダース(本屋)で利用できるようなので、これから立ち寄る多くの都市で活躍してくれそうである。1週間先の宿泊先も決めていない気ままな自由旅行だけに、インターネットが使えなかったらと思うとぞっとする。
夜は予約しておいたLights of Liberty Showに参加。各自ヘッドセット借りた後は、独立当時の服装をしたツアーガイドを先頭に外へ出る。屋外でこれだけの距離を歩いて回る3Dショーというのは初めてである。"as it happened, where it happened"という謳い文句の通り、街の要所を巡りながら、ヘッドセットに流れるナレーションと同期して壁面に独立宣言にまつわる画像が映し出される凝った仕組みである。
ベンジャミン・フランクリンが英国から戻り演説をするシーン(私は英国の政治家であり友人でもある人物に次のような手紙を送った。君は私にとって長年の良き友人だった。しかし今日から君は僕のエネミーだ)や、最後にGod Bless Americaが流れるシーンは迫力があった。ただもう少し劇的な演説を期待していた独立宣言自体が今ひとつ盛り上がりにかけた(淡々と読み上げられていた)のはやや残念だった。比較するのもおかしいが、映画"Independence Day"でエミリオ・エステベスが人類の独立を宣言した演説の方が感動的だった。
またGod Bless Americaが流れた後に拍手喝采する両親と、それを見てマネをする幼い子供を見て「いわゆるアメリカの愛国心」というものが、こうして世代間で受け継がれていくのかと思うと少し複雑な心境になった。アメリカは自由、正義、愛国という大義のもとではしばしば盲目的、排他的になり、客観性を欠いた判断を下す国である。自らが正しいと信じる信念を貫くためには手段を問わないというのが入植、独立当時から綿々と流れる彼らのメンタリティーである。
Philadelphia (PA) (1)
フィラデルフィア初日。ホテルのフロントで聞いたSEPTAというバスに乗ってビジターセンターへ。まずは土地勘をつかむために90分間のトロリーツアーのチケットを購入、発着所へ向かう。30人程度収容できるツアーバスに乗り込み、ガイドを務めるMaryという学生風の女性にチケットを渡す。「ハーイ、どこから来たの?」と聞かれ、これまでだったら「東京、ジャパン」と一言で済ませて会話が終わっていたいたところを「ニューハンプシャーから。信じられないと思うけど、向こうはまだ寒いよ」という冗談が反射的に出てきた。するとMaryも社交辞令モードから一歩踏み出して「ほんと?でもこっちも昨日はひどい嵐だったのよ」と嬉しそうに話しかけてくれる。些細な会話だが「そうか、自分はアメリカに住んでいたんだな」という事実を今更ながら実感した瞬間だった。
このトロリーツアーが実に良く出来ている。ちょうど気持ちの良い気候も手伝って快適なバスの旅となったのだが、フィラデルフィアの要所を全て回り、Maryが冗談を交えながら懇切丁寧にガイドしてくれたので、とても効率的に街の全体像をつかむことができた。一言で言えばフィラデルフィアは米国発祥の地であり、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリンと言った建国の志士たちや独立宣言にまつわる建造物、展示が街中に点在している。フィラデルフィアを米国一周の出発点として選んだ理由もここにあるのだが、極めて大正解である。
ボストンのフリーダムトレイルやプリマスの博物館で見てきたものとリンクさせて考えると、米国の始まりを一層リアルに思い描くことができる。結局トロリーツアーと昼食を終えた頃には、Independence HallやCity Hall Towerといった見所のチケット(無料)が既にSold Outとなっており、残念ながら明日以降に回さざるをえなくなった。Lights of Liberty Show(建国の歴史を3D映像を駆使しながら見せてくれるツアー)もSold Outだったのだが、明日のチケットは確保することができた。
フィラデルフィアの街は基本的には碁盤の目になっているのだが、Philadelphia Museum of ArtとCity Hallを結ぶベンジャミン・フランクリン・パークウェイだけはそれらをぶち抜いて斜めに走っており、そのどこからでもCity Hall Towerの頂点にそびえるウィリアム・ペン(フィラデルフィアの創設者)の像が見えるという作りが印象的である(Maryの説明によると、建物の頂点に建てられている彫像物としては米国最大とのこと:詳細な定義は不明)。
またフィラデルフィアの街の第一印象として(適切な表現ではないかもしれないが)有色人種(特に黒人)が多いという事実に驚いた自分に驚いた。つまりそういう雑多な人種構成がアメリカの特徴だというこれまで当たり前だった認識が、ハノーバーに1年住んだことで若干ずれてきているのである。ハノーバーでは学生以外、白人がほとんどの割合を占めているのだが、ハノーバーの方がむしろ特異なのだということを改めて認識させられた。
明日は今日見逃したポイントを中心に再度フィラデルフィアの街を探索する。
このトロリーツアーが実に良く出来ている。ちょうど気持ちの良い気候も手伝って快適なバスの旅となったのだが、フィラデルフィアの要所を全て回り、Maryが冗談を交えながら懇切丁寧にガイドしてくれたので、とても効率的に街の全体像をつかむことができた。一言で言えばフィラデルフィアは米国発祥の地であり、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリンと言った建国の志士たちや独立宣言にまつわる建造物、展示が街中に点在している。フィラデルフィアを米国一周の出発点として選んだ理由もここにあるのだが、極めて大正解である。
ボストンのフリーダムトレイルやプリマスの博物館で見てきたものとリンクさせて考えると、米国の始まりを一層リアルに思い描くことができる。結局トロリーツアーと昼食を終えた頃には、Independence HallやCity Hall Towerといった見所のチケット(無料)が既にSold Outとなっており、残念ながら明日以降に回さざるをえなくなった。Lights of Liberty Show(建国の歴史を3D映像を駆使しながら見せてくれるツアー)もSold Outだったのだが、明日のチケットは確保することができた。
フィラデルフィアの街は基本的には碁盤の目になっているのだが、Philadelphia Museum of ArtとCity Hallを結ぶベンジャミン・フランクリン・パークウェイだけはそれらをぶち抜いて斜めに走っており、そのどこからでもCity Hall Towerの頂点にそびえるウィリアム・ペン(フィラデルフィアの創設者)の像が見えるという作りが印象的である(Maryの説明によると、建物の頂点に建てられている彫像物としては米国最大とのこと:詳細な定義は不明)。
またフィラデルフィアの街の第一印象として(適切な表現ではないかもしれないが)有色人種(特に黒人)が多いという事実に驚いた自分に驚いた。つまりそういう雑多な人種構成がアメリカの特徴だというこれまで当たり前だった認識が、ハノーバーに1年住んだことで若干ずれてきているのである。ハノーバーでは学生以外、白人がほとんどの割合を占めているのだが、ハノーバーの方がむしろ特異なのだということを改めて認識させられた。
明日は今日見逃したポイントを中心に再度フィラデルフィアの街を探索する。
Tuesday, June 08, 2004
DAY1
今日から妻と二人で米国一周ドライブツアーをスタートした。この夏休みという非常に恵まれた人生でも貴重な時間をどう過ごそうかいろいろ思案したのだが、最終的には今、生活しているこの米国という国に留まり、長い時間をかけていろいろな角度から見聞を広めることが僕たちの人生における大きな財産になるだろうという結論に到達した。しかもこんな思い切ったことができるのは時間的にも年齢的にもこの機会をおいて他にないかもしれない。
米国最北東部に位置する我が家(厳密に言うとMaine州が最北東)から東部を下りGeorgia州まで、そこから西に進路を変えCalifornia州へ向かう。次に北上してWashington州へ。最後は北部を一気に横断してNew Hampshireへ戻るという遠大な計画である。Florida州とMaine州は以前訪れたことがあったので、それを加えれば四隅全てを制覇する全米ツアー(Alaskaを除く)。実に全米50州のうち33州を旅することになる。
初日は我が家のあるWest Lebanon (NH)からPhiladelphia (PA)まで約7時間(予定)の行程。北東部は一つ一つの州が比較的小さいため、今日は一日で7州を通ることになった(New Hampshire, Vermont, Massachusetts, Connecticut, New York, New Jersey, Pennsylvania)。
途中渋滞にはまったり、マンハッタンを横切った辺りで違うルートに乗ってしまったり、若干のロスはあったものの、昼食休憩も含めて結局8時間強で無事Philadelphiaに到着。Philadelphiaは全米第五の都市と言われており、Hanoverのように家にも車にも鍵をかける必要のないのんびりした街とは全く違う米国の顔を見せてくれるはずだ。完全に暗くなる前に到着することができたのでほっと一安心。また8時間という行程をそれほど苦もなく乗り切ることができたことで「本当にできるんだろうか」という不安が「できるんじゃないか」という自信に変わってきたのが大きな収穫である。
米国最北東部に位置する我が家(厳密に言うとMaine州が最北東)から東部を下りGeorgia州まで、そこから西に進路を変えCalifornia州へ向かう。次に北上してWashington州へ。最後は北部を一気に横断してNew Hampshireへ戻るという遠大な計画である。Florida州とMaine州は以前訪れたことがあったので、それを加えれば四隅全てを制覇する全米ツアー(Alaskaを除く)。実に全米50州のうち33州を旅することになる。
初日は我が家のあるWest Lebanon (NH)からPhiladelphia (PA)まで約7時間(予定)の行程。北東部は一つ一つの州が比較的小さいため、今日は一日で7州を通ることになった(New Hampshire, Vermont, Massachusetts, Connecticut, New York, New Jersey, Pennsylvania)。
途中渋滞にはまったり、マンハッタンを横切った辺りで違うルートに乗ってしまったり、若干のロスはあったものの、昼食休憩も含めて結局8時間強で無事Philadelphiaに到着。Philadelphiaは全米第五の都市と言われており、Hanoverのように家にも車にも鍵をかける必要のないのんびりした街とは全く違う米国の顔を見せてくれるはずだ。完全に暗くなる前に到着することができたのでほっと一安心。また8時間という行程をそれほど苦もなく乗り切ることができたことで「本当にできるんだろうか」という不安が「できるんじゃないか」という自信に変わってきたのが大きな収穫である。
The end of the first year
遂に最終プレゼンが終了した。今日(6/4)は1年で一番ではないかというくらいの最高の天気、気候に恵まれ、1年を締めくくる日に相応しい。僕の一日は目の回るような忙しさだった。朝一番でHanover Innまでクライアントを迎えに行き、街の簡単な紹介をしながらTuckまでの道のりを歩く。到着するとメンバーたちはスーツを着こみ、既にスライドや配布資料等の準備も万端の様子。
クライアントが席につき、軽く雑談をした後、これまで通りAjiがイントロのスピーチを開始する。続いて僕。本案件の技術的バックグランドの確認と、リサーチで集めた業界内の競争状況や、潜在パートナー、顧客について説明する。続いてTeddyが今回の肝である市場調査の結果を発表、Kimが潜在パートナーや顧客に対して行ったインタビュー結果の報告でTeddyのロジックをバックアップ。次にTammyがこれまでの授業等で学んだ戦略分析フレームワークを使ってクライアントの強み、弱み等を第三者の観点から報告。最後に再度Kimがまとめ(Wrap Up)と提言を行った(本来はPratipのパート)。
これまで何度も行ってきたプレゼンだけに流れるようなチームワークを発揮できたことに加え、途中で飛んでくる質問に対してもそれぞれが補い合いながら協力して回答したり、既にバックグランドに精通しているクライアント向けに各自が発表の切り口を若干微修正しつつ、1時間弱に及ぶプレゼンが無事終了した。
クライアントが総評をして下さっている間に、あちこちのチームを掛け持ちしていた担当教授が漸く到着。クライアントのMさんが「今ちょうど終わるところです。彼らの発表は素晴らしかったので是非S+をあげて下さい」とリップサービスをしてくれたのが、すかさず各メンバーから小声で「Hです、Hの方が上です」という突っこみが入る。MITでMBAを取得されているMさんだが、とうやらTuckの成績の仕組みまでは分からなかったようだ(笑)。ともかくこんな冗談が言えるほど、メンバーとクライアントの関係も良好で、メンバーが「クライアントのために」という意識を持ってくれた大きな要因にもなったと思う。これは本当に幸運だった。
プレゼンが終わると、とんぼ返りでNYへ戻るEdさんを最寄りのレバノン空港までお送りする(往復約40分)。学校へ戻るともうメンバーたちは立ち話をしながら散り散りになる直前だった。Kimはもう帰ってしまった後だった。最後はいつもあっけないものだが、メンバーの一人一人と手を握り、肩をたたき合いながら健闘を称えあい、"Have a great summer"と言う決まり文句でチーム解散となる。Tammyから「こんな素晴らしいプロジェクトに参加させてもらって本当にありがとう」と言ってもらったときは嬉しかったが「それはこっちの台詞だよ」という言葉が偽らざる僕の心境であった。
その後、クライアントのMさん、Mさんを紹介して下さった2年生のDさんと一緒に食事をしながら暫くお話をする。一見華々しいNY勤務も、東京でのそれとは違った苦労がいろいろとあるようだ。Mさんを無事空港へ送り届けた頃には午後3時を回っていた。本当に本当にこれで1年間のカリキュラムが全て終了したことになる。
何か一つのものを生み出す苦しみと、それを完遂した自信や経験値、苦楽を共にしたかけがえのない仲間の数とともに、確実に時間が過ぎて行く。
クライアントが席につき、軽く雑談をした後、これまで通りAjiがイントロのスピーチを開始する。続いて僕。本案件の技術的バックグランドの確認と、リサーチで集めた業界内の競争状況や、潜在パートナー、顧客について説明する。続いてTeddyが今回の肝である市場調査の結果を発表、Kimが潜在パートナーや顧客に対して行ったインタビュー結果の報告でTeddyのロジックをバックアップ。次にTammyがこれまでの授業等で学んだ戦略分析フレームワークを使ってクライアントの強み、弱み等を第三者の観点から報告。最後に再度Kimがまとめ(Wrap Up)と提言を行った(本来はPratipのパート)。
これまで何度も行ってきたプレゼンだけに流れるようなチームワークを発揮できたことに加え、途中で飛んでくる質問に対してもそれぞれが補い合いながら協力して回答したり、既にバックグランドに精通しているクライアント向けに各自が発表の切り口を若干微修正しつつ、1時間弱に及ぶプレゼンが無事終了した。
クライアントが総評をして下さっている間に、あちこちのチームを掛け持ちしていた担当教授が漸く到着。クライアントのMさんが「今ちょうど終わるところです。彼らの発表は素晴らしかったので是非S+をあげて下さい」とリップサービスをしてくれたのが、すかさず各メンバーから小声で「Hです、Hの方が上です」という突っこみが入る。MITでMBAを取得されているMさんだが、とうやらTuckの成績の仕組みまでは分からなかったようだ(笑)。ともかくこんな冗談が言えるほど、メンバーとクライアントの関係も良好で、メンバーが「クライアントのために」という意識を持ってくれた大きな要因にもなったと思う。これは本当に幸運だった。
プレゼンが終わると、とんぼ返りでNYへ戻るEdさんを最寄りのレバノン空港までお送りする(往復約40分)。学校へ戻るともうメンバーたちは立ち話をしながら散り散りになる直前だった。Kimはもう帰ってしまった後だった。最後はいつもあっけないものだが、メンバーの一人一人と手を握り、肩をたたき合いながら健闘を称えあい、"Have a great summer"と言う決まり文句でチーム解散となる。Tammyから「こんな素晴らしいプロジェクトに参加させてもらって本当にありがとう」と言ってもらったときは嬉しかったが「それはこっちの台詞だよ」という言葉が偽らざる僕の心境であった。
その後、クライアントのMさん、Mさんを紹介して下さった2年生のDさんと一緒に食事をしながら暫くお話をする。一見華々しいNY勤務も、東京でのそれとは違った苦労がいろいろとあるようだ。Mさんを無事空港へ送り届けた頃には午後3時を回っていた。本当に本当にこれで1年間のカリキュラムが全て終了したことになる。
何か一つのものを生み出す苦しみと、それを完遂した自信や経験値、苦楽を共にしたかけがえのない仲間の数とともに、確実に時間が過ぎて行く。
Thursday, June 03, 2004
Graded Presentation
プロジェクトチームの成績をつける担当教授に対するプレゼンテーションが終了した。全員で何度も練習し、お互いに意見を出し合った成果が出た素晴らしいプレゼンテーションだったと思う。途中、教授から何度となく質問があったが、それぞれがコメントをフォローし合いながらそれなりの対応ができたと思う。教授の質問の多くは的を得たもので、僕も「論理的に弱い」と感じていたところばかりだったのだが、これはクライアントのプロダクト自体が抱える問題や、前向きな結果を期待するクライアントの意向とも若干関係しており、ある程度の矛盾を抱えながらも、僕たちとしては考え抜いた末の落としどころだったので止むを得ない。
最終的に教授から「いい発表だった」とコメントをもらい、質疑応答も終了。全員で教室を後にする。廊下に出ると誰からともなく握手やハグを交わし"Great job!"とお互いの健闘を称えあう。その後、Stell Hallで立ち話をしながら教授からもらったコメント、クライアントへの最終プレゼンに向けた留意点などを簡単に確認し合う。
今日でPratipが一足早く学校を後にする。彼自身の結婚式の予定が以前から組まれていたので仕方がない。テクノロジーに精通しているだけでなく、強いパーソナリティを持ったPratipは、中盤から実質的なプロジェクトリーダーとして、僕に足りない部分を補い、チームを力強く引っ張ってくれた。彼なしではこのプロジェクトの成功はありえなかっただろう。最終プレゼンで彼がいないのは本当に痛いのだが、残ったメンバーで彼の穴を補っていくしかない。「Pratipはこのプロジェクトからもう卒業だね」と声をかけると、本人は意外にあっけらかんとしていたが(結構ドライ)、Tammyが「あー、そうだね、なんか寂しい」と共感してくれた。
翌日はPratipを除く5名で午後に集合し、最後のリハーサル。Pratipの担当部分を僕とKimが引き受けることになり、全体をひと通り流してみる。これまで何度こういうリハーサルを持っただろうか。各々のパート(内容及び発表の仕方)も最初の頃からは見違えるように良くなっている。このメンバーとはここのところ毎日長時間一緒に過ごしているので、妙に親近感を覚える。ここに来て全員がプロジェクトにコミットし、責任を果たそうという姿勢が見られるようになり、チームとしての一体感も確実に高まっている。
その後、僕はAjiと打合せ室にこもって、クライアントに手渡すレポートの最終チェック、修正作業に入る。教授には既にレポートを提出済みなのだが、プレゼンテーションを繰り返す過程で、若干内容にも変更が出てきたので、それらとの整合性を図るために全体に目を通す。Ajiは最終的な校正と製本作業を引き受けてくれた。僕は一日早く到着予定のクライアントを迎えに近郊のレバノン空港へ向かう。夜はクライアントを交えての夕食会。先方のNYオフィスからはシニアマネージャーのMさん、アシスタントマネージャーのEdが忙しい中、Hanoverまで来て下さった。
1年目のカリキュラムも、いよいよあとは明日に迫ったクライアントへの最終プレゼンを残すのみ。1年目の集大成として、これまでやって来たことに自信を持ち、気持ちの入ったプレゼンテーションで締めくくりたい。
最終的に教授から「いい発表だった」とコメントをもらい、質疑応答も終了。全員で教室を後にする。廊下に出ると誰からともなく握手やハグを交わし"Great job!"とお互いの健闘を称えあう。その後、Stell Hallで立ち話をしながら教授からもらったコメント、クライアントへの最終プレゼンに向けた留意点などを簡単に確認し合う。
今日でPratipが一足早く学校を後にする。彼自身の結婚式の予定が以前から組まれていたので仕方がない。テクノロジーに精通しているだけでなく、強いパーソナリティを持ったPratipは、中盤から実質的なプロジェクトリーダーとして、僕に足りない部分を補い、チームを力強く引っ張ってくれた。彼なしではこのプロジェクトの成功はありえなかっただろう。最終プレゼンで彼がいないのは本当に痛いのだが、残ったメンバーで彼の穴を補っていくしかない。「Pratipはこのプロジェクトからもう卒業だね」と声をかけると、本人は意外にあっけらかんとしていたが(結構ドライ)、Tammyが「あー、そうだね、なんか寂しい」と共感してくれた。
翌日はPratipを除く5名で午後に集合し、最後のリハーサル。Pratipの担当部分を僕とKimが引き受けることになり、全体をひと通り流してみる。これまで何度こういうリハーサルを持っただろうか。各々のパート(内容及び発表の仕方)も最初の頃からは見違えるように良くなっている。このメンバーとはここのところ毎日長時間一緒に過ごしているので、妙に親近感を覚える。ここに来て全員がプロジェクトにコミットし、責任を果たそうという姿勢が見られるようになり、チームとしての一体感も確実に高まっている。
その後、僕はAjiと打合せ室にこもって、クライアントに手渡すレポートの最終チェック、修正作業に入る。教授には既にレポートを提出済みなのだが、プレゼンテーションを繰り返す過程で、若干内容にも変更が出てきたので、それらとの整合性を図るために全体に目を通す。Ajiは最終的な校正と製本作業を引き受けてくれた。僕は一日早く到着予定のクライアントを迎えに近郊のレバノン空港へ向かう。夜はクライアントを交えての夕食会。先方のNYオフィスからはシニアマネージャーのMさん、アシスタントマネージャーのEdが忙しい中、Hanoverまで来て下さった。
1年目のカリキュラムも、いよいよあとは明日に迫ったクライアントへの最終プレゼンを残すのみ。1年目の集大成として、これまでやって来たことに自信を持ち、気持ちの入ったプレゼンテーションで締めくくりたい。
Wednesday, June 02, 2004
The day before the rehearsal presentation
ビジネススクールとはあくまでも「学校」であり、実際の「ビジネス」でないだけに、どこまで強く主張すべきかという間合いが非常に難しい。肩書きもなくお互いに台頭な立場であることも、プロジェクトの管理を難しくしている一つの要因である。
一般化するのは危険だが、概して彼らはあまり人の話を聞かない。僕が話し始めるとおもむろにキーボードをたたき出したり(大抵はメールかメッセンジャー)、二人くらいで別の話を始めてゲラゲラ笑ったりするメンバーが出てくる。これは僕が話しているときに限ったことではないで彼らの性質なのだろうが、文化として「打合せで人が話し始めたら聞く」という環境に慣れている僕としては、そういうことが頻繁に起こると段々ストレスが溜まってくる。
お互いに余裕があってにこにこ笑っていられる間は当たり障りのない関係が築ける。しかし一旦誰かのアイデアにチャレンジすると厳しいコンフリクトが起きることがある。アメリカ人同士は会話の合間にうまく冗談を交えながら、お互いの関係が悪化しないように細心の配慮を払っている。ときに厳しい議論を交わしても、すぐにそれが人間関係に反映しないようなメカニズムが驚くほどうまく機能している。逆に言えば、冗談や細かい表現のニュアンスが彼らの人間関係の生命線なのである。
僕には依然として言葉の壁があってなかなかそれができない。彼らと一緒に作業することの苦痛は以前に比べれば驚くほど小さくなっているし、たまには気の効いた冗談も言えるようになっているのだが、彼らの「間合い」に入っているとは言い難い。まだ「お客さん」の域を出ていないのである。彼らは時間との闘いというような強いプレッシャーにさらされると「お客さん」の反論に不快感を示すようになる。また議論がヒートアップすると(意図的かどうかは分からないが)どんどん早口に、かつ微妙な表現が多くなっていくので、リアルタイムで意思の疎通が図れない僕と彼らとの間でお互いにフラストレーションが溜まってくる。
それがピークに達し、僕の発言に笑ったメンバーに対して思わず「おい、何がおかしいんだよ。そういう態度は俺は嫌いだ」と睨みつけてしまった。すると当事者ではないメンバーたちが「Rioのことじゃなくて別の話で笑ってたんだよ」「そうなんだ、気分を害してしまって悪かった」とフォローし、一瞬緊張が走る。僕も当然コンフリクトを起こすことを意図している訳ではないのだが、彼らとの間合いには未だに苦しんでいる。
溜まったフラストレーションはその場で発散する僕の性格上、自分の中では全てのストレスがすぐにゼロクリアになる。ただ言われた方にはわだかまりが残っている可能性があり、また相手が女性だったので、翌日の朝一で彼女には「昨日は失礼なことを言ってごめん。君が悪かったんじゃなくて、僕自身が自分を思うように表現できないことにフラストレーションが溜まっていたんだと思う」と謝りを入れる。彼女もそれから笑顔が頻繁に見られるようになったので、やはり彼女なりに気にしていたのかもしれない。
ともかくチームとしての一体感を取り戻し、コミュニケーションを専門とする教授に対するプレゼンのリハーサルも成功裏に終了した。プロジェクト完遂まであと一歩である。
一般化するのは危険だが、概して彼らはあまり人の話を聞かない。僕が話し始めるとおもむろにキーボードをたたき出したり(大抵はメールかメッセンジャー)、二人くらいで別の話を始めてゲラゲラ笑ったりするメンバーが出てくる。これは僕が話しているときに限ったことではないで彼らの性質なのだろうが、文化として「打合せで人が話し始めたら聞く」という環境に慣れている僕としては、そういうことが頻繁に起こると段々ストレスが溜まってくる。
お互いに余裕があってにこにこ笑っていられる間は当たり障りのない関係が築ける。しかし一旦誰かのアイデアにチャレンジすると厳しいコンフリクトが起きることがある。アメリカ人同士は会話の合間にうまく冗談を交えながら、お互いの関係が悪化しないように細心の配慮を払っている。ときに厳しい議論を交わしても、すぐにそれが人間関係に反映しないようなメカニズムが驚くほどうまく機能している。逆に言えば、冗談や細かい表現のニュアンスが彼らの人間関係の生命線なのである。
僕には依然として言葉の壁があってなかなかそれができない。彼らと一緒に作業することの苦痛は以前に比べれば驚くほど小さくなっているし、たまには気の効いた冗談も言えるようになっているのだが、彼らの「間合い」に入っているとは言い難い。まだ「お客さん」の域を出ていないのである。彼らは時間との闘いというような強いプレッシャーにさらされると「お客さん」の反論に不快感を示すようになる。また議論がヒートアップすると(意図的かどうかは分からないが)どんどん早口に、かつ微妙な表現が多くなっていくので、リアルタイムで意思の疎通が図れない僕と彼らとの間でお互いにフラストレーションが溜まってくる。
それがピークに達し、僕の発言に笑ったメンバーに対して思わず「おい、何がおかしいんだよ。そういう態度は俺は嫌いだ」と睨みつけてしまった。すると当事者ではないメンバーたちが「Rioのことじゃなくて別の話で笑ってたんだよ」「そうなんだ、気分を害してしまって悪かった」とフォローし、一瞬緊張が走る。僕も当然コンフリクトを起こすことを意図している訳ではないのだが、彼らとの間合いには未だに苦しんでいる。
溜まったフラストレーションはその場で発散する僕の性格上、自分の中では全てのストレスがすぐにゼロクリアになる。ただ言われた方にはわだかまりが残っている可能性があり、また相手が女性だったので、翌日の朝一で彼女には「昨日は失礼なことを言ってごめん。君が悪かったんじゃなくて、僕自身が自分を思うように表現できないことにフラストレーションが溜まっていたんだと思う」と謝りを入れる。彼女もそれから笑顔が頻繁に見られるようになったので、やはり彼女なりに気にしていたのかもしれない。
ともかくチームとしての一体感を取り戻し、コミュニケーションを専門とする教授に対するプレゼンのリハーサルも成功裏に終了した。プロジェクト完遂まであと一歩である。
Tuesday, June 01, 2004
The day before the deadline
久しぶりに初期のスタディグループのような惨めな気持ちを味わった。紙ベースの最終レポート締切りの前日、それぞれがドキュメントを持ち寄り、ワーディングとロジックを中心にお互いにコメントを出し合って提出版を作り上げていく。相当非効率な進め方になってしまい、結局ミーティングは朝の4時半まで続いた。本当はもっと早め早めに進めておきたかったのだが、彼らがギリギリまで「ごめん、まだできてない」と先延ばししてきたツケが出てしまった。冗談で「朝までかかったりして」とは言っていたものの、細かい表現やフォーマットの話で本当に朝までかかるとかなりうんざりしてくる。
またワーディングの話となると彼らがおかしいと言えばおかしい訳で、僕がコメントできる余地は全くない。久しぶりに貝になった。更に悪いことに、修正が僕の担当部分にかなりの割合で集中したので(僕が人よりも多くアウトプットを出しているということも関係しているが)、「この表現は意味不明」「これは不要」などと次々に言われると若干しょげてくる。しかも明け方にナチュラルハイになってくると、意図的ではないにせよ、僕がおかした間違いに大笑いするメンバーが出てきた。初めは僕も笑っていられたのだが、段々「何がおかしいんだよ」という気持ちなってくる。今日のところはギリギリこらえた。結局家に着いたのは朝の5時前。なんとか提出まで漕ぎつけたものの、今日は本当に体力を消耗した。
またワーディングの話となると彼らがおかしいと言えばおかしい訳で、僕がコメントできる余地は全くない。久しぶりに貝になった。更に悪いことに、修正が僕の担当部分にかなりの割合で集中したので(僕が人よりも多くアウトプットを出しているということも関係しているが)、「この表現は意味不明」「これは不要」などと次々に言われると若干しょげてくる。しかも明け方にナチュラルハイになってくると、意図的ではないにせよ、僕がおかした間違いに大笑いするメンバーが出てきた。初めは僕も笑っていられたのだが、段々「何がおかしいんだよ」という気持ちなってくる。今日のところはギリギリこらえた。結局家に着いたのは朝の5時前。なんとか提出まで漕ぎつけたものの、今日は本当に体力を消耗した。