Saturday, July 31, 2004
Detroit (MI)
デトロイトと言えば自動車の町というのが子供の頃から漠然と持っているイメージである。また日本の自動車産業の成功とともに、ビッグスリーが工場を移転するなど雇用状況が悪化、その城下町であったデトロイトは廃れ、治安も極めて悪いというのが最近の印象である。しかしシアトルで会ったデパート店員のPamelaが「デトロイトは来てるわよ」と一押しだったので、実際にデトロイトがどのような町なのか、どのような変貌を遂げたのかをこの目で確かめるためにダウンタウンに出向く。
実際に見たデトロイトの町は、僕が以前から持っていたイメージの方に極めて近いものだった。湖のほとりにGMの本社を含むルネッサンスセンターというビル群が再開発され、町は活気を取り戻しつつあるという話だったのだが、週末の土曜日ということもあり人影もまばらで、何も見るべきものがない。一番賑やかと言われたGreek Townも「これだけ?」という感じである。しかもほんの数ブロック離れただけで、がら空きの古い建物が延々と続き、町に漂う雰囲気もあまり良いものではない。
極めつけは1999年までデトロイト・タイガースの本拠地として使われていたタイガースタジアムがそのまま放置されていたことだ。普通これだけ大きな敷地が使用されなくなれば、何か別の用途に改築されてしかるべきだと思うのだが、すっかり廃れてお化け屋敷のようになっている。周囲を見渡してもほとんどの建物が使われていない様子だったので、この辺りでビジネスを起こそうという人がいないのだろう。
アラバマ州のセルマやテキサス州のアマリロも同じように廃れていたのだが、ここデトロイトはかつて繁栄を誇っていただけに、廃れ方も半端ではない。これだけ多くの建物が放置されたまま使われていない(窓が割られている建物も多い)というのは、この旅でも初めて見る光景である。
ダウンタウンから西へ10マイルほどの距離にあるDearbornという町にはヘンリー・フォード博物館がある。ここには自動車に関するもの全てが展示されていると言っても大袈裟ではないだろう。また自動車以外にも機関車、航空機、住居など、展示物は多岐に渡っている。博物館は子供連れの家族で大賑わい、古き良きアメリカを愛するアメリカ国民にとって、この博物館は自動車という域を超えた特別な意味を持っているのかもしれない。
ところでこのヘンリー・フォード博物館は、広大なフォード社の敷地内に建てられている。初めに迷い込んだのはフォードのエンジン開発を扱うエンジニアの建物だったのだが、駐車場には当然のことながらフォード車ばかり並んでいる。僕たちのホンダCR-V号は何となく不安気だ。石でも投げられるんじゃないかと冗談を言っていたのだが、さすがにもうそんな時代ではないらしい。僕が道を尋ねたフォードの社員らしき男性も親切に教えてくれた。
展示物の中で目を惹いたのは、歴代大統領が乗っていたという専用リムジン、フォード社のリンカーンである。JFKが暗殺された際に乗っていたリムジンも展示されている。このリムジンはその後、屋根が付けられてジョンソン、ニクソン、フォードの各大統領に受け継がれたと言う。そして大統領専用車として展示される最後の車はレーガンが使用していたものである。ガラスには白くスモークがかかっており、中を覗くことはできない。現在大統領が使用している専用車以降は、機密保持のため全て廃棄処分になると言う。
「ローザ・パークスのバス」も展示されている。彼女はアラバマ州モントゴメリーで公民権運動が盛んになった1960年代に一躍有名になったアフリカン・アメリカンである。当時のアラバマは以前にも触れたように、人種差別が当然のこととしてまかり通っており、バスの座席も白人が前、黒人は後ろと決まっていた。しかも席が埋まっているときに白人が乗って来ると、黒人は席を譲るように運転手から命令された。そんな時代に席を譲ることを頑として断り、逮捕されてしまったのがローザ・パークスである。その後、キング牧師を中心とするバスのボイコット活動が成功し、アフリカン・アメリカンの公民権獲得へとつながっていく。
車体にMontgomeryと書かれたバスに乗り込み、係の人がローザ・パークスが座っていた座席の位置や当時の様子について、簡単な説明をしてくれる。ローザ・パークスはその後、周囲からの嫌がらせでモントゴメリーに住みづらくなり、親戚を頼ってここデトロイトに移住、90歳を過ぎた今でも健在と言われている。
更に車とは全く関係ないのだが、リンカーン大統領が暗殺されたときに座っていたフォード劇場(Washington D.C.)の椅子も展示されている。この椅子には(本人のものとは確認できないそうだが)未だに血痕がくっきりと残っている。この椅子は暗殺の証拠物件として60年以上もの間、政府に保有されていたのだが、その後の競売でフォードが落札、現在このデトロイトに安住の地を見つけたという経緯である。ヘンリー・フォードという人物について詳しくは知らないが、彼が歴史上重要な意味をもつコレクションの数々を大枚をはたいてかき集めた様子がよく分かる。
ところでここデトロイトを中心とするミシガン州とお隣のオハイオ州は、今年の大統領選挙でキャスティングボートを握る州と言われている。共和党、民主党とも確固たる地盤がなく、時の情勢によって州民の支持が揺れるのである。この二州の現在の関心事は製造業を中心とする産業と雇用の回復にあると言われている。特にオハイオ州で敗退した候補者は過去一度も大統領に選ばれていないというジンクスもある。
民主党の全国大会を終え、民主党はケリーとエドワーズが、共和党はブッシュ大統領が早速この二州を遊説して回っているようだ。クリーブランド(オハイオ州)へ向かう道すがら、どちらかに出くわさないかなあと妻と話していたのだが、新聞のスケジュールを見る限り、どうやらニアミスで終わりそうである。
Democratic National Convention
ミネソタ州、ウィスコンシン州、イリノイ州、インディアナ州を経由してデトロイト(ミシガン州)に到着した。米国には4つのタイムゾーン(Eastern, Central, Mountain, Pacific)があり、その境界線を越える毎に1時間ずつ時計をずらすことになる。南部を東から西へ進んだ行きはその度に1時間得をしたのだが、西から東へ向かう帰りは当然のことながら1時間ずつ損をすることになる。シカゴを過ぎたところから遂にEasternタイムゾーンへ戻って来た。もうここからは時計の時刻を変える必要はない。旅も残すところあと僅かである。
4日間に渡って盛大に行われた民主党の全国大会(Democratic National Convention)は最終日の昨夜、John Kerryの指名受諾演説で幕を閉じた。テレビとウェブを通じてではあるが、初めてこのNational Conventionというものに直に触れ、その凄まじい熱気と迫力に圧倒された。思えばTuckの同級生であるCarolynから米国大統領選挙の仕組みやJohn Kerryという人物、Carolynの出身地であるボストンで開催される党大会について教えてもらったのが去年の11月。その時は「すごく盛り上がるわよ」というニュアンスが今ひとつ理解できなかったのだが、これは単なる政治集会の枠を超えた国家的イベントであった。
初日はゴア前副大統領、カーター元大統領、ヒラリー・クリントン上院議員、クリントン前大統領が立て続けにスピーチを行い、さながら民主党のオールスター揃い踏みといった雰囲気である。さすがに一時代を築いたリーダーたちだけあって、聴衆を惹きつける並外れた魅力は衰えていない。僕もテレビ画面から一瞬たりとも目が離せない。これだけ前座が素晴らしい仕事をしてしまうと、最終日のケリー本人が見劣りするのではないかと心配してしまうほどだった。
終わってみれば、エドワーズ、ケリーともに、それぞれの持ち味が出た素晴らしい演説であったと思う。特に「人物が見えてこない」「華がない」という評価を未だに克服できていなかったケリーにとって、今日の演説は期待を上回るものであった。それでも冷静な評論家の間では、最終的には大統領候補同士のテレビ討論が大勢を決めるだろうという見方が一般的だ。
一方、僕にとってこの一連のスピーチは、Communicationの授業で学んだこと以上に内容の濃いレクチャーだったような気がしている。曖昧な点を確認したかったのでウェブで検索してみると、民主党のウェブサイトに演説の全文(Transcript) が掲載されていた。本当に便利な時代である。特に関心をひいた6名の演説を併せると、フォントサイズ8.5で30ページにも及んでしまうのだが、後から読み返しても映像と音声が鮮明に頭の中で蘇ってくる。リマインダーとしてそれぞれ印象に残った部分の抜粋と感想を残しておきたい。
Vice President - Al Gore
「正直に言うと私は今週この場所に、違う状況で立っていたかったと思っています。大統領の再選という立場で。しかし古い諺にもあるように、人生は勝ったり負けたりです。あまり知られていない三つ目のカテゴリーもありますが。しかし私は今日、過去について話しに来た訳ではありません。私が今でもベッドの中で羊の数を数えては、また数え直しているとは思ってほしくありません」
ユーモアと皮肉たっぷりのこの出だしのスピーチに一気に惹き込まれる。
「4年前の私の経験から学んで下さい。一つ目の教訓は一票の重さ(Every vote counts)です。そして今度こそ全ての投票が間違いなく数えられるようにしっかりと見張りましょう。最高裁判所が大統領を決めるのではなく、大統領が裁判官を選ぶのでもないということを明確にしましょう。二つ目の教訓は、大統領選挙の結果がこれだけ国を変えてしまうということです。その結果は2億9,300万のアメリカ国民と世界中の人々に重大な影響を与えるのです」
「今、私たちが直面している深刻な困難は、民主党や共和党の困難ではなく、アメリカ全体の困難だとは思いませんか?私たちはアメリカ国民として一体になってこれを克服する必要がありませんか?その精神に基づいて、私は4年前にブッシュ大統領に投票した人々に問いたいと思います。この4年間であなたが投票した候補者から期待したものは得られましたか?アメリカ国民はより一体になりましたか?それとも二極化してしまいましたか?(Is our country more united today? Or more divided?) 思いやりの保守主義という約束は守られましたか?それとも今では虚しく響きますか?」
2000年の大統領選挙の結果を引き合いに出し、その教訓を国民に問いただす適任者はゴアをおいて他にいない。非常に説得力のあるスピーチが続く。
「ところで私は経済の悪化について個人的によく理解しています。なぜなら私が最初に解雇された人間だからです。新しい雇用が生み出されたことが真実である一方で、その仕事の質は以前ほど良いものではありません。偶然ですがこれは私にも当てはまります。しかし残念ながらこれは数百万人のアメリカ国民にとっては冗談では済みません。党派を超えた本当の解決策が必要とされているのです」
ユーモアと真剣なメッセージを交互に繰り出す巧みな話術は、聴衆を更にゴアの世界に強く惹き込んでいく。安全保障の問題では問いかけ調の言葉で次のような問題提起をしている。
「私たちは、同盟国との架け橋を燃やし尽くしてしまった大統領ではなく、アメリカの尊敬を取り戻すことのできる新しい大統領とともにある方がより良い結果をもたらすと思いませんか?イラクでのジレンマを解決するためには、他国との連携が重要だとは思いませんか?それはテロリストから国を守るためにも決定的に重要だとは思いませんか?」
「私たちは、私たちが現在直面している脅威についてはっきりさせておく必要があります。私たち自身を守るために、私たちは私たちを攻撃し、これからも攻撃しようとしている張本人に的を絞るべきだとは思いませんか?そのテロリストとはアルカイダであり、それを率いるウサマ・ビンラディンです。アルカイダとイラクを混同してしまうような大統領とともにあることは安全ですか?私たちの警戒は、私たちに対する根本的な危機から逸脱し過ぎてはいませんか?」
「私たちは新しいリーダーシップを持つことができます。なぜなら私たちの民主主義の強さは、私たちが間違った方向に進んでいるときに、私たち自身がそれを修正できるという点にあるからです。政策が明らかに機能していなければ、私たちはそれを変えることができるのです。私たちのリーダーが間違いを犯したとしても、私たち国民は彼らの責任を問い正すことができるのです。例え彼らが過ちを認めようとしなかったとしてもです。私はアメリカが国内で強く、海外で尊敬されるために、新しいリーダーシップが必要だと確信しています(Stronger at home and respected in the world)」
「2000年の結果に失望し、怒りを感じた人々はその感情をもう一度思い出して下さい。そしてそれを私がしたような方法で使って下さい。John KerryとJohn Edwardsをホワイトハウスに送ることに全面的に力を注いで下さい」
President - Jimmy Carter
"My name is Jimmy Carter, and I’m not running for president."
いきなりのお約束ジョークにずっこけた。アトランタのカーターセンターで目にしたポスターが頭をよぎる。今年81歳になるというカーター元大統領はエネルギーさえ衰えたものの、彼自身のキャリアと現在アメリカの置かれた状況をうまく関連付けながら、淡々と、しかししっかりとした口調で演説を続ける。
「私が今なすべきことは、John KerryとJohn Edwardsをホワイトハウスに送り込むためにできる限りのサポートをすることです。28年前、私は大統領に立候補していました。その時に私はこう言いました。政府はアメリカ国民と同じように善良で、正直で、品位を保ち、思いやりを持つべきだと。今夜私は同じことを言いたいと思います」
「私はかつて二人の大統領に仕えました。トルーマンとアイゼンハワーです。民主党と共和党という違いこそありましたが、彼らに共通したことは、自ら戦争に従軍し、戦争の恐ろしさ、責任を自覚していたことです。彼らは後に最高司令官として、アメリカ国民が本当に差し迫った危険にさらされていない限り戦争をすべきではないという信念を持ち続けました。John Kerryはそのことを理解しています。私はJohn Kerryが現在の政府に完全に欠けている判断力と成熟さを取り戻すと確信しています」
「ソビエトが崩壊したときに大きな役割を果たしたのは、明確な信念に基づく世界的な同盟でした。しかしながら最近の政策のために私たちの信頼は失われ、私たちは世界から孤立してしまいました。中東でもアンチ・アメリカの気運がかつてないほど高まっています。大切なのは信頼です。信頼とはこの民主主義の根幹をなすものです。戦争大統領が世論調査を気にして突然平和大統領になることなどできません。John Kerryは今日失われてしまったテロリズムに対する世界的な同盟を取り戻すでしょう。不必要な戦争を避けるために」
いずれも、生涯を通じて平和外交を体現し、ノーベル平和賞を受賞したカーター元大統領ならではの言葉であったと思う。カーター元大統領の演説のクライマックスは以下のフレーズである。
「私たちは世界をリードすることなどできません。私たちのリーダーが間違っている限り(We cannot lead if our leaders mislead)」
Senator - Hillary Clinton
ヒラリーはケリーとあまり関係が良くないと言われ、今回の党大会でも演説の予定はなかったのだが、ヒラリーの支持基盤であるニューヨークや女性団体から抗議の声が相次ぎ、クリントン元大統領を紹介するという微妙な立場で演壇に立つ機会を得た。今回ケリーが負けるようなことがあれば、次回2008年の選挙では民主党プライマリーの本命とも言われている。そのヒラリーがこの場で演説する背景には複雑なニュアンスが感じられる。
それでもヒラリーが「今夜私は偉大な民主党の前大統領を紹介できることをとても光栄に思います。でもその前に、偉大な次期大統領であるJohn Kerryについていくつか述べさせていただきたいと思います」と言い切った瞬間、僕は「夫の紹介」という立場を超えて、政治家として、自立した一個人である自分を表現する決意だと受け取った。これはこれで痛快で面白い瞬間だった。
「彼は世界から孤立するのではなく、リードするでしょう。赤字を増やすのではなく、それを減らすでしょう。雇用を失くすのではなく、それを生み出すでしょう。ヘルスケアの問題を無視するのではなく、それを解決するでしょう。ヘルスケアについては私も少し知っているつもりです。過去4年間で問題は悪化の一途を辿っています」
ヘルスケアの専門家であることをさり気なく、しかし意図的にアピールするあたりにヒラリーの野心が見え隠れする。
そして「1992年と1996年に、アメリカ国民はアメリカをより良い状態に引き上げた大統領を選びました。彼は民主党がどうやれば勝てるのかということを証明しました。第42代アメリカ合衆国大統領、ビル・クリントンです!」という紹介に促され、スタンディングオベーションの中、クリントンが登場する。会場であるボストン・フリートセンターの盛り上がりは最高潮に達する。
President - Bill Clinton
「私は上院議員とこの演壇を共有できることを大変名誉に思います。私は彼女を誇りに思っています。また私の家族の一員がまだ政治家として国に仕えることを助けて下さっているニューヨークの方々に感謝します」
鳴り止まない歓声と拍手。次のクリントンの言葉が興味深かった。
「ちょっと今、聞こえなかったかもしれないのでもう一度言わせて下さい。私は彼女を誇りに思っています。また私の家族の一員がまだ政治家として国に仕えることを助けて下さっているニューヨークの方々に感謝します」
ヒラリーはニューヨーク州の上院議員であり、地盤であるニューヨーク州民にアピールするために「これだけは絶対強調してくれ」と口を酸っぱくしてクリントンに詰め寄った様子が容易に想像できる。前大統領も今ではすっかり尻にしかれているというところだろうか。しかしここからはさすがと唸らせるスピーチとなった。彼のカリスマはいまだ健在である。
「私たちは皆、良い仕事、良い学校、良い医療、安全な町、清潔な環境を求めています。私たち(民主党と共和党)の違いは、これらのことをどうやって実現するかという点にあります。民主党はアメリカ国民の皆さんに前向きなキャンペーンを提示します。誰が良くて誰が悪いというのではなく、私たちの子供が受け継ぐべき安全と繁栄を実現する最良の方法を提示します。民主党は責任と機会の共有を主張します。グローバルな連携を優先し、本当にそうしなければならない時にだけ単独で行動します」
前大統領という自由な立場から、直接的、間接的な共和党批判を織り交ぜつつ、共和党との明確な差別化を図ろうとする言葉が続く。
「彼らは政府の役割が富裕層と権力者に尽くすことにあると考えています。ほとんどのアメリカ国民はそれほど極右ではないですから、彼らは民主党を「強さと価値観に欠ける到底受け入れられない政党」というイメージに仕立て上げようとしています。言い換えれば、彼らは分断されたアメリカを必要としています(In other words, they need a divided America)。しかしアメリカ国民は一つになることを望んでいるのです(But Americans long to be united)」
この「分断されたアメリカ」と「一つのアメリカ」という表現は僕に強烈なインパクトを与えた。恐らく会場を埋めた支持者やテレビの前の国民もそう感じたのではないだろうか。これはクリントンのスピーチのみならず、民主党が今回の選挙戦で前面に出すキーワードの一つであるようだ。
「今、彼らは二つの核兵器を開発しています。そしてそれを先制攻撃に使う可能性についても言及しています。国内でも共和党議会はそれと同じくらい大きな決定を下しました。戦時下としては史上初めて、二つの巨額な減税が行われたのです。そしてその半分は上位1%の富裕層に恩恵を与えています。私は今、人生で初めてそのグループに属しています」
あれ?この人は何を言いだすんだろう。自分の金持ち自慢でもするつもりなのかと一瞬耳を疑ったのだが、その後の言葉がふるっていた。
「私がホワイトハウスにいた時には、共和党員は私に対してとても意地悪でした。しかし私が去ってお金を稼ぐようになると、私は突然彼らにとって世界中で最も重要なグループの一人となったのです。私は思わず彼らに御礼の手紙を書くところでした (At first, I thought I should send them a thank you note)」
聴衆を大笑いさせた後、間髪いれず心に訴える力強いメッセージを畳み掛ける。
「その代価として彼らがあなた方に請求書を突きつけているということに気づくまでは(Until I realized they were sending you the bill)」
僕も思わず鳥肌が立つ。それからクリントンは、共和党が自分を含む富裕層を優遇するくれる代わりにどういう手段で経費を節約しているかというデータを続けざまに披露する。そしてその合間に「もしこれらの選択に賛成なら、彼らに投票して彼らをホワイトハウスと議会に戻して下さい。でもそうでないならば、John KerryとJohn Edwards、民主党に目を向け下さい(If you agree with their choices, you should vote to return them to the White House and Congress. If not, take a look at John Kerry, John Edwards, and Democrats)」という表現を繰り返し、クリントンの声のトーンとともに会場のボルテージもどんどん上がってくる。この同じメッセージを繰り返し使う手法はアメリカの政治家の得意技であるが、これが実に効果的に機能する。彼らは人の心をつかむ術を熟知している。クリントンは更にこの手法を使う。
「私がJohn Kerryについて知っていることを述べます。ベトナム戦争が始まった時、現在の大統領、副大統領、そして私も含め、ベトナムに行くことはできたのですが、私たちはそうしませんでした。John Kerryも特権階級にあったので、徴兵を回避することができました。しかし彼はその代わりにこう言ったのです。俺を送れと(Send me)」
「政治家が彼らにボートでベトナムの川を上らせ、彼らの任務は敵をおびき出すためにアメリカ国旗を掲げ、標的となることだと言った時、彼はこう言いました。俺を送れと(Send me)」
「戦争の傷を癒し、ベトナムとの関係を正常化させようとしていた時、そして捕虜の解放と行方不明兵の捜索を要求しなければならなかったとき、彼はこう言いました。俺を送れと(Send me)」
「これからの100日間、私と一緒にJohn Kerryの物語と彼のプランを広めていきましょう。この会場の皆さん、そしてアメリカ中の皆さん、彼がアメリカに言い続けてきたこの言葉を今、彼に送ってあげて下さい。俺を送れと(Send me)」
この頃にはパラグラフの終わりに合わせて会場中が"Send me"と大声で叫んでいる。
「共和党はあなたたちにJohn KerryとJohn Edwardsを恐れるようにと吹聴しています。彼らはテロリストに対して立ち向かわないからだと。あなたはそれを信じますか?強さと知恵は相反する価値観ではないのです(Strength and wisdom are not conflicting values)。両立できるのです。そしてJohn Kerryはそのどちらも兼ね備えています」
これもブッシュ大統領に対する強烈なカウンターパンチである。サンフランシスコのヘイトアッシュベリーで見かけた"If I had a brain..."とブッシュを皮肉ったTシャツが思い出される。
「私たちアメリカ国民は歴史上のいかなるターニングポイントにおいても、分断ではなく結束を選択してきました。共和国の初期にアメリカは今日と同じように大きな分かれ道に立っていました。本当の国を形成するのか否かという点で議論が分かれました。しかし私たちはより完全な結束を選びました(We chose a more perfect union)」
「南北戦争において、アメリカはまたしても岐路に立ちました。結束を保ち、奴隷制度を終わらせるのかどうかという点で立場が二分しました。そこでも私たちはより完全な結束を選びました(We chose a more perfect union)。1960年代にアメリカは公民権と女性の権利を巡ってまた岐路に立ちます。それでも私たちはより完全な結束を選びました(We chose a more perfect union)。今またどちらかを選ぶときが来ています」
そしてクリントンはスピーチの最後をこう締めくくった。
「私たちは皆、同じボートに乗っています。私たちの船のキャプテンには、この荒波を越えて、安全な海と澄み渡った空に、そしてより完全な結束に向けて、どうやって舵を切るか知っている勇敢な男を選びましょう。私たちがなすべきことは分かっています。一つになって大きな声でこの言葉を叫びましょう。John Kerryを送れと(Send John Kerry!)」
思ったより長くなってしまったので、エドワーズとケリーの演説についてはまた後日。
Sunday, July 25, 2004
Rapid City (SD)
ラピッドシティと言えば、マウントラッシュモアが一番の観光地である。あの四人の大統領の顔が岩山に彫られたものと言えば日本人でも知らない人はいないだろう。四人とはアメリカ建国の功労者であるジョージ・ワシントン(初代)、トマス・ジェファーソン(3代)、南北戦争や奴隷解放宣言で名を馳せたエイブラハム・リンカーン(16代)、パナマ運河を開通させたセオドア・ルーズベルト(26代)である。功績面で明らかに見劣りするルーズベルトがなぜここに並んでいるのかは不明だが、彫刻家であるボーグラムの個人的な英雄だったという説が有力だ。
またマウントラッシュモアに比べて知名度は低いものの、マウントラッシュモアから南に20マイルほどのところにクレイジーホース・メモリアルがある。これはこの地で勇敢に戦ったインディアンのカリスマ的リーダー「クレイジーホース」の姿を同じように岩山に彫ったものである(未完成)。
現在アメリカ国内に生存しているインディアン(ネイティブ・アメリカンという表現の方が適切)たちは、リザベーションと呼ばれる特別居留区に寄り添って生活している。ここサウスダコタ州にあるPine Ridge ReservationがNavajo Reservation(アリゾナ州)に次ぐ全米第二の規模と聞き、表面的にしか理解していなかったネイティブ・アメリカンの歴史と現状について、ウェブで情報を集めることから始めてみる。Thunderheart (1992)という日本未公開の映画も、事実とフィクションのバランスがうまく取れていてとても参考になった。
結論から言うと、ここサウスダコタに生存するスー族の迫害の歴史、現状の生活は俄かには信じがたく、目を覆いたくなるようなものであった。個人的に思うところは多いのだが、まずは複数のソースから集めた事実だけを列挙してみたい。
Fact 1: スー族の歴史
・現在Pine Ridge Reservationに居住しているスー族は、元々ミネソタ州北部の森林地帯で生活していた(そこでは狩猟、魚釣り、採集によって生活の糧を得ていた)
・1700年代半ばに白人の侵略が始まり、スー族は西部への移住を余儀なくされる(そこで彼らは狩猟、貿易、馬乗りの達人になる)
・1778年までにスー族はサウスダコタ州の西部にあるBlack Hillsを発見した。Black Hillsはその時から(今もなお)スー文化の宗教的、精神的拠り所となっている
・しかしこの地にも採掘(金、ウラン、石炭)や居住地の拡大を目的とした白人が侵略を開始し、1860年代にはRed Cloud Warが勃発する
・オグララ・スー族はこれらの戦闘でことごとく敗北し、1868年にフォート・ララミー条約が締結される。これによりオグララ・スー族は、スー特別居留区(The Great Sioux Reservation)に押し込められることになる
・1889年には連邦政府が7.7エーカーに及ぶBlack Hills(オグララ・スー族の聖地)を没収し、オグララ・スー族はPine Ridge Reservationへと強制的に移住させられる
・1890年にはこのPine Ridge Reservationに住む300人以上(約200名の女性、子供を含む)のスー族が、連邦政府の軍隊に無差別に虐殺されるという歴史的悲劇が起きる
参考:ウーンディッドニーにおけるゴーストダンスと虐殺(日本語)
・19世紀後半からはインディアン管理局(BIA)による徹底的な同化政策が実施され、「インディアンに文明を教える」という大義名分のもと、子供たちは強制的に親元から引き離され、虐待、言葉による侮辱が容赦なく行われる(このインディアン学校制度は1969年まで続く)
参考:同化政策としてのインディアン学校(日本語)
・1980年代になって、連邦最高裁は「違法にBlack Hillsの土地を略奪した」として連邦政府に対し、数十億円の損害賠償支払いを命じる。しかし今日までオグララを初めとするスー族は、彼らの原則(金ではなく土地を返せ)に基づいてこの受け取りを拒否し続けている
Fact 2: Pine Ridge Reservationの生活状況
・人口は約18,000人(季節によって30,000人程度まで増加する)
・平均所得は、米国民全体の平均所得の5分の1を下回り、米国内でも経済的に最も貧しい地域とみなされている。失業率は8割を超え、居住者の69%は貧困の定義を下回る生活を強いられている
・居留地の境界線内にはこれといった産業、天然資源がなく、雇用も極めて少ないため、多くの居住者は1年のほとんどを120マイル離れたラピッドシティでの職探しに費やしている
・住居問題は深刻であり、数百人がホームレス、数千人が低水準の住居に収容キャパシティを上回る密度で暮らしている
・医療に対する補助も不十分であり、多くの居住者は病院での診療が受けられていない。平均寿命は男性で48歳、女性で52歳。幼児の死亡率も高い。糖尿病、肺炎、アルコール依存症の蔓延が深刻な問題となっている
参考:Adventures in Mission(英語)
参考:Allies of the Lakota(英語)
参考:Lakota Chamber of Commerce(英語)
それからある白人米国人による個人ウェブサイトでは、非常に客観的な視点からこの居留区の問題が提示されている。彼は慎重すぎるほど慎重に自らの立場を以下のように述べている。
「長年に渡るパインリッジでの出来事については様々な解釈が可能であり、私のこのウェブサイトも一方に偏ったものと思われるかもしれない。そのため私は、私がこれを書くに至った経緯を説明することが重要だと感じている」
「私はインディアンではない。私はインディアンになりたい症候群でもない。私はインディアンに謝罪を繰り返すべきだという立場にさえ立っていない。ただ私は人間として公正を信じ、論争を論理的に一貫性をもって解決することを信じ、法律を信じ、政府は自らが制定した法律を守るべきだと信じている。私はこの問題に対し、私は政治的な観点からではなく、何が正しいのかという観点から、公正にアプローチするように心がけた。私は、私の意見がアメリカ合衆国憲法、権利章典、独立宣言に記されたような理にかなった原則として捉えられることを希望する」
彼の意見には僕も全く異論はない。この問題はそのような立場から語られ、対処されるべきである。
My Thoughts
いろいろとこの地にまつわる史実を調べていくうちに、ある強い疑問が浮かんでくる。なぜネイティブ・アメリカンの聖地であるこのブラックヒルズに、このモニュメント(マウントラッシュモア)を造る必要があったのだろう。以前からなぜサウスダコタという辺鄙な場所にこれがあるのか不思議に思っていたのだが、とても不気味で不快な想像が頭をよぎる。白人たちは意図的にインディアンの聖地であるこの土地にそれを造り、自分たちの権力を誇示しようとしたのではないかという疑問だ。
「ここブラックヒルズはネイティブ・アメリカンにとっての聖地だと聞いている。それを考えるとアメリカ建国の象徴であるマウントラッシュモアがまさにこの地に建てられているという事実に違和感を覚える。あなたはそれをどう思うか?」
まずはマウントラッシュモア・ビジターセンターの白人男性スタッフ(60歳前後)にこの質問をぶつけてみる。すると彼の表面的な笑顔が一変、途端に顔をこわばらせて「その質問に対する答えはない」と今にも帰れと言わんばかりの態度を見せる。少しでも本音を聞きだしたかったので「いや僕は日本人というニュートラルな立場で素朴な疑問を持っただけなんだけど」と友好的な笑顔を作ってみたのだが「私はそれについて議論するつもりはない」とにべもない。そういう態度ならと僕も少し意地になり「それはここで働いているスタッフとしてのあなたの意見ですよね。あなた個人はどう思うんですか?」「私はここで働いている以上、個人的見解も述べられない」駄目だこりゃ。
でもおそらくこれが一般的な白人、特にアメリカ国旗を振りかざし、アメリカの自由、民主主義を盲目的に信じているタイプの白人の典型的な反応だろう。「お前は一体何が言いたいんだ?俺たちがインディアンの土地を踏みにじった上に、更に嫌がらせでここに建てたとでも言いたいのか?」と怒鳴られなかっただけまだましなのか。本音と建前を日本人以上に使い分けるのが彼らの特徴であり、この質問は彼らにしても無意味だということを悟る。
そんな短い会話があった後、ビジターセンター内の土産物を眺めていると、写真集の表紙に書かれた"Freedom"という誇らしげな文字が目に飛び込んできた。「Freedom? 」ここで見るこの言葉には強烈な違和感と嫌悪感を感じ、思わず失笑してしまう。彼らの言うFreedomとは、彼ら以外の人間のFreedomを滅茶苦茶に引き裂いた上に成り立っているということをどの程度理解しているのだろうか。
同じ質問をクレイジーホース・メモリアルにいたMistyというネイティブ・アメリカンの女性(40歳前後)に投げかけてみた。彼女は非常に明るく、聡明な女性という印象を受けた。Mistyの答えは明快だった。「あれは彼らがこの地を征服したということを誇示しようとしたんでしょ。でも実際そうなんだから仕方ないところもあるわね」
Mistyの答えは僕が想像していたこととピタリと一致した。彼らは次々に土地を略奪し、人々を虐殺し、ほぼ絶滅に近い状況に追い込んだだけでは事足りず、更に「彼らの自由」の象徴である歴代大統領のモニュメントを、ネイティブ・アメリカンの聖地に建設したのである。この歴史的経緯からは、彼らの中に人間の心を見ることはできない。
彼らがインディアンに対して繰り返し使ってきた「野蛮な民族」と言う言葉は、まさに白人のためにあるように思える。彼らは野蛮という言葉の定義を知っているのだろうか。国語辞典で野蛮という言葉を引いてみると「文化の開けていないこと。未開なこと」に加えて「乱暴で礼儀を知らないこと。文化・教養の低さを感じさせること」と記されている。最近メディアで取り上げられている「中東の民主化計画」なるものも全く同じ発想から来ていると言っていい。「アメリカと異なる価値観を持つ中東の民族は野蛮=危険であり、自分たちと同化させなければならない」という新興宗教にも似た盲信である。
またキリスト教徒を自認する彼らは本当に聖書を読んだことがあるのだろうか。「汝の敵を愛しなさい」「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」という聖書の言葉は無神論者の僕でさえ知っている。彼らがその教えを忠実に守り、実行しているとはとても思えない。それでいて真顔で教会に礼拝し、懺悔し、神に許しを乞うたりしているのである。自分たちに都合のいいときにだけ自由、民主主義、神といった言葉を引用する彼らは完全に自己分裂症である。精神的に深刻な病を抱えている。
そういう視点から見るマウントラッシュモアは、子供の頃に漠然と「いつか見てみたいなあ。すごく迫力があるんだろうなあ」と呑気に考えていた頃とは大きく違って見える。自分がいかに無知で間抜けだったかということを思い知らされる。同時にどうしてこういう事実が世の中に広く知られていないのかということに強い憤りを覚えた。ネイティブ・アメリカンたちは一体どういう思いでこのモニュメントを見上げてきたのだろう。
その後Mistyと交わした会話は以下のようなものである。
「私たちも自分たちの文化、誇りを形に残していこうということで、このクレイジーホースのモニュメントを造ろうとしているのよ」「政府の資金援助は受けてないの?」「私たちはそれはしたくない。そうしてしまったらこのクレイジーホースが彼らのものになってしまうから」「マウントラッシュモアは政府の資金援助があったから14年程度で完成したと聞いているけど、こっちは50年かかって未だに顔の部分しかできていない。一体いつ頃、完成するんだろう?」「さあねえ。できれば私が死ぬまでにできてほしいとは思うけど(笑)。でも仕事は確実に進行してるのよ。今日も11時に一回岩場を爆破したわ。もちろん観光客が驚かないようにアナウンスした後にね」
「昨日パインリッジ・リザベーションやウーンディッドニー記念碑にも立ち寄ったんだけど、住居がとても小さく粗末で、あちこちに廃車となった車が山積みになって投げ捨ててあったのにはびっくりした。まるで別世界だった」「見てきたのね。そう、あれがここで暮らすネイティブ・アメリカンの現実なの」「商工会議所やその他のウェブサイトでこの地域のことについて少し学んだんだけど、それによると貧困率や失業率が非常に高いということだった。多くの人は職を求めて遠く離れたラピッドシティまで行っているというのは本当?」「本当よ。だけど仕事を探すのは簡単じゃないし、低賃金の肉体労働が多い。ネイティブ・アメリカンに対する偏見や差別は決して歴史などではないわ。それは今でも続いているの」
「僕はジョージア、アラバマなどの南部諸州を通ってきて、アフリカン・アメリカンの人たちから同じような話を聞いたよ。状況は似ているかもしれないね」「そうね。この間なんてテネシーから来たという人に「君たちはインディアンであることを捨てるべきだ」って言われたわよ。開いた口が塞がらなかったわ」「なんだそりゃ…ひどいね…でも僕も日本人、アジア人として時に同じように不快な気分になることがあるよ」「それは分かるわ。私はグアムにいたこともあったんだけど、あそこは日本が占領したでしょ。パールハーバーとか未だに引き合いに出す人もいるでしょうね」
「教育はどうなってるの?自分たちの高校や大学はある訳でしょ?彼らは卒業したらどうしてるの?」「卒業したら?私は私の子供たちにはここから出て行くように勧めているわ」「えっ?出て行くことを勧めてるの?」「そうよ。だってここには希望も何もないんだから。でもここから出て行くことで何かを学んで帰って来て、またそれを地域に還元してほしいと願ってるわ」
結局のところ、ネイティブ・アメリカンは自分たちの文化、アイデンティティを守りたいと願いつつ、この資本主義経済、技術革新の時代に「アメリカ」という国に住みながら、狩猟生活に逆戻りすることなど不可能なのだ。そもそも彼らの生活の糧であった天然資源や土地は根こそぎ奪われてしまい、新たに「与えられた」土地は何も作物が育たないようなところばかりである。一方で彼らは資本主義経済に適応するだけの十分な教育、機会を与えられていない。ジーンズをはき、コンビニで買い物をする彼らの姿は、時代に翻弄されるネイティブ・アメリカンの苦悩を象徴しているようだ。
最後にMistyのお父さんが書いたという民族比較論の本を購入、「この本にサインしてもらえないかな?」とMistyに尋ねると、僕の名前を聞いて少し考えたあと、何かメッセージを添えて渡してくれた。そこには、To Rio: Thanks for respecting our culture!とあった。
ラピッドシティを後にし、90号線で東へ向かう途中、ウォールという街にあるウーンディッドニー博物館に立ち寄る。ウェブサイトがかなり充実していたので、かなり立派な博物館なのだろうと期待して行ったのだが、高速道路の真下に建てられた平屋の建物は、博物館と呼ぶにはあまりにも貧弱なものであった。ここで新たに学ぶものは少なかったのだが、ネイティブ・アメリカンによる以下の証言は、白人による迫害のパターンを非常に簡潔に、しかし的確に表していた。
「白人の移住者たちはいつも決まったパターンを辿った。まず白人の商人や狩猟者はネイティブと資源を分かち合うことを誓い、人種を超えた結婚がしばしば行われた。すると彼らは土地の所有権を主張し、囲いを立て、ネイティブをそこから排除しようとした。土地や資源に対する要求は徐々にエスカレートした。軍隊が現れて武力による排除が行われた。手続きが開発され、彼らは条約を提案し、土地の見返りに素晴らしい利益を約束し、抵抗者には賄賂や威嚇が用いられた。しかし条約はいつも裏切られ、また新たな条約が提案された。このサイクルには決して終わりがなかった。ラコタ・スー族は条約が改正される度に、より小さな土地へと押し込められるようになった」
この博物館は白人アメリカ人によって運営されている。スタートアップコストを回収した後は、ネイティブ・アメリカンに管理、運営を委譲するという説明書きがされていたので、何か強い信念を持った人によって設立されたのだろうと思っていたのだが、フロントに座っていた中年の白人女性は、拍子抜けするほどあっけらかんとした人だった。「夫が軍人だったから三沢に6年ほど住んでいたことがあるわ。一度車で東京に行ったときはひどかったわね。取締りも厳しいし、スピードは全然出せないじゃない。もうどれだけかかるのかしらって感じ。それと気味の悪い食べ物も多かったわね。でもチーズ餃子と焼きそばは大好きだわ。この間も友達がフェデックスでチーズ餃子を送ってくれたの」というよく分からない話を延々と聞かされてしまったのだが、最後にもう一度だけ彼女にも同じ質問(マウントラッシュモアの彫像がこの場所にあることについて)をぶつけてみた。
「その点を指摘する人はとても多いわよ。あなただけじゃないから心配しないで(笑)」と僕の肩をたたく彼女。あまり笑って話すことではないと思うのだが、物事を真剣に考えるのが苦手なタイプのようだったので、御礼を言って博物館を後にする。ただこの地を訪れる人の多くが僕と同じ疑問を持っているという事実を確認できて、少しだけ救われたような気分になった。
Thursday, July 22, 2004
Butte (MT)
レンタカーで単身国立公園巡りをしているTuckのS氏と丁度すれ違うことが判明、メールと電話で連絡を取り合って、Butteという何もない町のステーキハウスで夕食をともにする。こんな地の果てのようなところでTuckの仲間と会うというのも不思議な気分である。1ヶ月半ぶりに会ったS氏は元気そうであったが、本人いわく「太った」とのこと。たくさん食べてたのかと聞いたら、あまり食べていないと言う。謎だ。S氏は中西部の国立公園をほぼ制覇しているので、写真を見せてもらいながらあれこれ情報交換をする。さすがに大自然はお腹いっぱいと言っていたが何となく理解できる。
忙しく働いているときは癒しを求めて大自然の中でゆったりとくつろぎたくもなるのだが、人気の国立公園は想像以上に混雑しており、やや興ざめという気分になるときがある。またドライブ旅行では過程そのものが大自然だったりするので、感動も薄くなりがちである。むしろシアトルのような都会に着いたときに嬉しくなっておいしいレストランを探したり、買い物に出かけたりしてしまう。
モンタナ州を舞台として描かれたA River Runs Through It (1992)のDVDを観る。これまで観る機会はなかったのだが、何となく地味な映画というイメージが残っている。妻は二度目なのだが「全くストーリーを覚えていない」と言う。ウェブ上での評価も賛否両論、女性からは「文句なしにブラピが可愛いっ☆」というようなストーリーと関係のない書き込みが多い…
僕は特にブラピ好きという訳でもなく(だったら怖い)、フライフィッシングに興味がある訳でもなかったので、モンタナの美しい自然がどのように表現されているのかという程度の期待で観始めたのだが、実際には静かな感動を呼び起こす素晴らしい作品だった。フォレストガンプのところでも同じようなことを書いたが、この映画をもし10年前に見ていたとしたら「何て地味でつまらない映画なんだ」と思ったに違いない。実際ストーリーは大きく盛り上がりを見せる訳でもなく、むしろ淡々と進んでいく。
牧師でもある厳格な父親のもとで育てられた兄弟が、時に衝突したり、それぞれ違う道を選びながらも、共通の趣味(というよりも父親から受けた教育の一貫)であるフライフィッシングを通じ、かけがえのない存在としてお互いを認め合う。生真面目な兄(クレイグ・シェファー)と奔放な弟(ブラッド・ピット)は誰よりもお互いを理解しており、少ない言葉でも通じ合うことができる。
教会での父親の最後の説教は、この作品全体を包含するクライマックスであり、終わってからじわじわと心に染み入るような後味を残してくれた。「身近に助けを必要としている大切な人がいて、しかしその人が私たちの助けを受け取ろうとしなかったとしたら、私たちは一体どうすればいいのでしょうか?」「それでも私たちは、その人を完全に理解はできなくとも、完全に愛することはできるのです」
年老いた兄が、思い出のBlackfoot Riverで独りフライフィッシングに没頭する最後のシーン。ここで初めて題名である"A River Runs Through It"の意味が分かる。全ての風景、大切な思い出が一つに溶け込んでいく意識の中で、その中心にBlackfoot Riverが滔々と流れていくのだ。
Blackfoot Riverが見たい。どうしても見たくなった。しかしBlackfoot Riverはモンタナ西部の町、ミズーラに程近く、僕たちはとっくにそこを超えてきてしまっている。翌日も東へ進まなければいけない日程上、難しい決断を迫られたが、結局この旅始まって以来、初めての逆走を決意する。100マイルほど西に戻って漸くたどり着いたBlackfoot River(OvandoからLincolnにかけての上流)は、豊かな緑や岩石に包まれて悠然と流れていた。くねくねと曲がりながら姿をくらましてはまた現れ、その度に違う表情を見せてくれた(1, 2)。少し横道にそれると森の中にボートを積んだ車がとまっていたり、実際にフライを楽しんでいる人たちを見かけることができた。映画のように格好良くとはいかなかったが、このモンタナの大自然の中では、独り川に浸かっている普通のおじさんでさえしっかり絵になっている。日本ではなかなかこうはいかない。
それから嬉しい驚きだったのは、「お前ならどこの学校にだって入れる」と父親に太鼓判を押された長男が、地元の高校を卒業後、なんとダートマス大学に入学していたことだ。ダートマス・グリーン(ハノーバーの中心にある広場)の白黒写真や、"D"というダートマスのロゴ入りTシャツを着た長男が出てきたときには思わず妻と指を差し、「あっ!あっ!」と歓声をあげてしまった。
ダートマス絡みでもう一つ面白かったのは、7年ぶりに故郷に戻った長男が弟に「あっちではフライフィッシングはどうだった?」と聞かれ「None」と答え、弟に「None?」と驚かれるシーンだ。ニューヨークやボストンならいざ知らず、ハノーバー近辺には十分釣りをする川はある(笑)。実際2004年の現時点でフライにはまっている同級生も多い。それとも彼は意図的にそれを避けていたのだろうか。
いずれにしてもこの作品との出会いは、実際にこの目で見た果てしなく広い平原や空、美しいBlackfoot Riverと相まって、モンタナのイメージを僕の記憶に強く印象付けてくれた。
Wednesday, July 21, 2004
Thoughts about MLB All Star Game
試合そのものとは別に、二日間のイベントを見ていて気になったことがある。メジャーには英語がうまく話せない選手が非常に多いということだ。まずは松井秀喜が断って回ってきた代役ながら、ホームランダービーで優勝したミゲル・テハダ(オリオールズ)。優勝後にフィールドでインタビューを受けていたのだが、発音がひどく何を言っているのかよく聞き取れない。インタビュワーも一瞬眉間に皺が寄ったのだが、何とか笑顔を取り戻して手短にインタビューが切り上げられた。
インタビューを終えたテハダに何人かの選手が英語で声をかけ祝福した直後、スペイン語を話す選手の集団がテハダを取り囲み、どこかの国の国旗をテハダに被せて大騒ぎしている。そうか、メジャーには中南米出身の選手が結構いるから、同郷選手の活躍を喜んでいるんだな。テハダが英語をうまく話せないのも、同郷選手が何人かいて、毎日スペイン語を話しているからだろうか。そのときはそのくらいの気持ちで見ていた。
次はスタジオに招かれてコメントしていたマリアーノ・リベラ。言わずと知れたヤンキースの押さえの切り札である。ヤンキースのというよりも、今や誰もが認めるメジャーNo.1のクローザーである。彼の英語がまたひどい。マウンド上ではきりりとした表情で決して動じず、ほぼ完璧に仕事をこなす完全無欠のスーパースターがボロボロの英語を話しているのを見るのはちょっと悲しい。しかも彼は既に10年もメジャーでプレーしているというのに。
極めつけは本番のゲームでMVPを獲得したアルフォンゾ・ソリアーノ(レンジャース)。もしかしたらと思っていたら案の定、ソリアーノの英語も滅茶苦茶である。インタビュワーはいくつか質問した後、どさくさに紛れて「おめでとう!」とか何とか言いながらインタビューを終わらせてしまった。ふつふつと疑問が湧いてくる。メジャーには一体どれくらい中南米の選手が在籍しているのだろう。どのくらいの割合がスペイン語を母国語として話す選手なのだろう。
そこで今回オールスターに出場した64選手の国籍を調べてみる(暇なことしてすみません)。すると次のような事実が分かった。全64選手中、中南米出身者が占める割合は34%、スタメンで出場した18人に絞ってみると更にこの割合は39%にまで跳ね上がる。彼らの出身国の公用語は全てスペイン語である。実に4割の選手がスペイン語を母国語とする中南米出身者ということになる。
更に今回のオールスターで驚くべきは、中軸として活躍した選手がほぼ全て中南米出身者で占められていたことだ。先に触れたホームランダービー優勝のテハダ、MVPのソリアーノに加え、初回に特大の2ランホームランを打ったマニー・ラミレス(レッドソックス)、終盤に駄目押しの3ランを打ったデイビッド・オルティス(レッドソックス)、ナショナルリーグで孤軍奮闘の活躍を見せたアルバート・プホルス(カージナルス)。何と彼らは全員ドミニカ共和国出身である。ドミニカは他にもアメリカンリーグの外野手部門でイチローらを押さえて人気投票第1位となり3番を任されたウラジミール・ゲレーロ(エンゼルス)、あのサミー・ソーサ(カブス)を含め、全9名がオールスターに選出されている。今回は出場しなかったが、メジャーで最も優れた投手の一人と言われるペドロ・マルチネス(レッドソックス)もドミニカ出身である。
他の中南米勢はベネズエラ(7名)、プエルトリコ(2名)、キューバ、パナマ、メキシコ、コロンビア(各1名)である。プエルトリコはメジャーNo.1捕手のイヴァン・ロドリゲス(タイガース)を含み今年は2名に留まっているが、バーニー・ウィリアムス、ホルヘ・ポサダ(ともにヤンキース)、カルロス・デルガド(ブルージェイズ)、アロマー兄弟(ホワイトソックス)など多くの名選手を輩出しており、事実上ドミニカ、プエルトリコ、ベネズエラが三大メジャー選手輩出国となっている。
ベネズエラとコロンビア以外は全て中米、カリブ海の国々であり、プエルトリコのような小さな島国からこれだけ多くのスター選手が輩出されているというのは驚くべき事実である。またベネズエラとコロンビアも南米大陸で最も北に位置するという点で、地理的、文化的な要素も大きく影響しているようだ。更に面白いのは「南米」と言えばサッカー一色という中で、ベネズエラが数少ないサッカー弱小国である点だ。スポーツ文化という観点から見れば、ベネズエラは南米ではなく中米・カリブ海に含まれると考えた方がいいのかもしれない。
各チームのレギュラークラスや無名選手を加えると、メジャーには無数の中南米出身者が在籍しており、よく調べてみるとチームによって同郷出身者が固まっていたりすることもある。母国から離れる不安を和らげるために、同郷の先輩を頼って海を渡るという行為は十分に理解できる。そんな文化的側面からメジャーリーグを眺めてみるのもなかなか面白い。
ところで、イチローや松井などの日本人選手が英語でインタビューを受けている姿は見たことがない(長谷川を除く)。記事でも必ず「…と通訳を介して話した」と付け加えられている。中南米選手のひどい英語を聞いていると、イチローや松井ならもっとうまく話せると思うのだが、彼らの美学がそれを許さないのだろうか。そういう意味ではイチローも松井も典型的な日本人である。どちらが良い悪いという話では全くないのだが、万が一、イチローがしどろもどろの英語を話し、子供たちをがっかりさせるようなことがあるならば、彼の神秘的なイメージを守るために「通訳を介する」というポリシーは正しい選択なのかもしれない。
Sunday, July 18, 2004
Seattle (WA)
まずはホテルの目の前にあるNordstorm(デパート)で恒例の7月セールが始まったという記事。二人ともアメリカに来てから(というよりハノーバーに来てから)あまり物欲がなくなった(正確に言うと買いたいものがない)のだが、久しぶりに妻がバッグと靴を買いたいと言い出したので、そのNordstormで妻のショッピングに付き合う。
ところでシアトルの街もまた、これまで見てきた他のどの街とも違っている。シアトルのユニークさは少し街を歩いただけでそれと分かる。本当に多様な人種構成であり、若い人(10代後半から20代)が多く活気に溢れた空気であり、大都会でありながら清潔に保たれた街並みである。"Seattle is totally different from other cities I’ve ever seen"という率直な感想をPamelaという女性店員(シアトル生まれのアフリカン・アメリカン)に伝えているうちに、随分長い時間、彼女と話しこんでしまった。
多様な人種構成という点に関して、Pamelaは「あなたの言う通り。興味深いのはそういう感想を言う人が他にも大勢いることね。シアトルは本当にいろんな人がいて、人を外見で判断しない街なのよ。私はシアトルが世界で一番平和な街だと思うわ。ここで生まれ育った私が言っているんだから本当よ」「確かにそんな感じだよね。面白いと思ったのはアジア人と白人のカップルがとても多いってことかな」「それだけじゃないわ。黒人とアジア人、黒人と白人っていうのも多いわね。(ちょっと声を低くして)実はゲイも多いのよ。まあとにかくここには何でも許される自由な雰囲気があるの。以前ハワイに行ったときに「ワシントン州にも黒人がいるんですか?」なんて聞かれたけど、当たり前よ!いるわよ!って答えたわ。黒人の割合は大体8%くらいかしらね。アジア人?そりゃもう数え切れないくらいよ」
若い人が多いという点については「全くその通り。赤い髪の色した人とか変な格好してる人をたくさん見たでしょ?私はもう27だからあんなことはできないけどね」シアトル近郊に大学が多いのもその理由だろう。清潔という点については「高い税金払ってるからね」とのこと。「この街って比較的新しいの?」「いやいや。長い長い歴史がある街よ。でも街を清潔に保つように巡回している人たちがいるの。でもあなたがそんな風にシアトルに関心を持ってくれて嬉しいわ。是非またニューハンプシャーから遊びに来てね」
やや話がずれるが、シアトルの街にはとても若くて(おそらく10代)いくらでも機会がありそうな白人男性、女性が「Homeless」「Anything helps」という看板を掲げてあちこちに座っている。これはこの旅行でも初めて目にする光景だ。中にはいい服を着て、犬を傍らに連れて、優雅に本を読んでいる男性や、とても栄養状態の良さそうな(つまり太っている)女性も見かけた。単に遊びでやっているのか、本当に困っているのか、その辺りは定かではない。
次に目に付いた記事は「盆踊りフェスティバル」である。ちょうどシアトルの日本人コミュニティがどんな様子なのか知りたかったので、年に一度のお祭りが今日、明日行われるという幸運な巡り合わせに感謝する。
インターナショナル・ディストリクトの外れで行われていたこのお祭りは想像以上に規模の大きいものだった。手書きの案内や仮設テントなど、地元の人の手作りイベントという雰囲気が伝わってくる。最初にビールを一杯飲もうと日系人らしき若者がサーブするテントに行き、ビールを注文。最初は英語で話していたのだが、途中でどうしても気になったので"Are you Japanese?"と聞くと"Yeah, I’m second generation"との答え。"Then, you do speak Japanese, don’t you?"と突っ込むと"No, I don’t. Sorry"という意外な反応。
後から分かったのだが、このお祭りをオーガナイズしているのは70歳以上のお年寄りを中心とした20数名の日系人の方々。興味深かったのは、日系人であるにも関わらず、多くの方は日本語が話せなかったり、たどたどしかったりで、英語の方がスムーズにコミュニケーションが図れるということ。彼ら彼女ら同士も英語で言葉を交わしている。ニューイングランドでは日系人を滅多に見かけないので、これだけ多くの日系人が集まっている風景というのは僕にとって異空間である。あるおばあさんは日本語が話せない理由をこう説明してくれた。「私は日本語も話せたら良かったのにと思うわ。だけど日本語を学ぼうとしたら父に言われたの。お前はアメリカに住んでいるアメリカ人なんだから日本語を話す必要なんてないだろってね」
体育館のような建物の中では、新聞記事にあった通り「水引き」の展示物がところ狭しと飾られている。受付に座っていた3名の年配の方々や、展示物の脇に座っていた5、6名の日系人、アメリカ人の方々に交じっていろいろと話を聞かせてもらう。「ニューハンプシャー?随分遠いところから来たな。あそこは共和党が強いのか?」「そうみたいですね」「私は根っからの民主党よ」「この間、ジョン・ケリーが大学に来たので握手しましたよ」「あら、じゃあ握手してもらおうかしら(笑)」そんな他愛もない会話を通じて彼らの歓迎ムードを肌で感じる。何だかとても居心地がいい。
僕は恥ずかしながら「水引き(字、合ってる?)」なるものを知らなかった。その点を引き合いに出して「僕がこっちに来てから一番失望したのは、僕が自分の国のことを全然知らなかったことです。同じようなイベントを大学でも毎年開催しているんですけど、僕が提供できるものがとても少ないんです」と言うと、隣りの日系人の女性が「あなたたちはどんどん近代化しているから仕方ないわね」と言い、その隣りのアメリカ人の男性は「我々がやろうとしていることは、時代をある時点、例えば50年前で止めて、それを保存することなんだ」と彼らの活動について説明してくれる。
「それが日本のものであれ、アメリカのものであれ、ジンバブエのものであれ、古いものを残していくことには大きな意義がある。言葉だってそうだ。僕たちは古い言葉もドキュメントに残そうとしている。例えばVexっていう単語はもう今の人は使わないんだけど、そういうようなものを…」「あら、私昨日使ったわ」と無邪気に笑う隣りのおばあさん。僕も思わず爆笑。「ところでそのVexってどういう意味なんですか?」と聞くと「まあ頭に来るとかそういう感じかな。今の若い人の言葉で言うと何かなー」すると後ろで立って聞いていた40歳前後の男性が「Pissed Off」と一言。「そうだ、それだ。ね、彼は僕たちとは違う世代なんだよ。彼らはそういう言葉を使うんだ」
僕たちを連れて丁寧に展示物を説明して下さった日系三世のおばあさんからも、いろいろと興味深い話を聞くことができた。時折「えー」とか「ね」とか「忍耐」といった日本語を交えながら、シアトルの日本人コミュニティについて聞かせてくれる。シアトルへの移民の歴史は1906年にまで遡ると言う。「なぜおじいさん、おばあさんはこちらへ来ようと決心されたんですか?」「そりゃあアメリカには当時の日本にはなかった自由や民主主義があったから」
「今の人はいいわね。私たちの頃よりもずっと良い教育が受けられて、より多くの機会を手にすることができるから。私たちの頃はなかなかそういう訳にはいかなかった。だからシアトルという街にみんな集まってお互い助け合って生きていったのよ。戦時中は一つの地域に押し込められて辛い思いもしたけれど、それでも自分たちの信念が変わることはなかったわ」D.C.で見た日系アメリカ人記念碑の光景が頭をよぎる。
一歩外へ出ると、通りでは太鼓や音楽に合わせて盆踊りが盛大に行われていた。仮設テントでは日系人の方々が牛丼や寿司を一生懸命作ってはサーブしている。アジア系やその他のアメリカ人を含め、みな思い思いに浴衣を着たり、団扇を手にしながら、盆踊りを楽しんでいる。東京音頭は久しぶりに聞いた。それにしても平和な光景である。とにかく流れている空気が何とも言えず穏やかで平和なのだ。「この人、微妙に日系人っぽいなあ。クウォーターかな。いやでも違うかなあ」という人が非常に多い。もちろん日系ではないアメリカ人も数多く参加している。それぞれ異なるバックグランドを持っている人たちが、お互いを尊重しながら共存している様子がよく分かる。シアトルは日本人にとって住みやすい街ナンバー1という話は良く聞いていたが、今日一日の散策を通じて、何となくその理由が分かったような気がした。
余談だが、お祭りの人ごみをかきわけて歩いているときに"I like your shirt"と声をかけられた。"Thanks. I like this, too"と答えながら思わずニヤリとする。これは今日Capitol Hillで見かけて一目ぼれ、早速着て歩いていたものだ。こういう思わず笑ってしまうTシャツがなぜか僕は大好きだ。一昨日も"Chicks hate me"(僕は女の子に人気がない)と書かれたTシャツを着て女の子に声をかけていた男性に思わず"I like your shirt"と言ったばかりだ。Tシャツから始まるコミュニケーションというのも何だかとても面白い。
Saturday, July 17, 2004
Mariners and Ichiro
セーフコフィールドでマリナーズ対インディアンスの試合を二日続けて観戦。イチローがマリナーズに入団した2001年以来、ずっと衛星放送のテレビ画面を通して観戦してきたスタジアムだけに、自分がこの場に来たという事実にちょっとした感慨を覚える。あの列車が通り過ぎるときのブァーという大音量も生で聞くと相当うるさい。
それにしてもマリナーズの急激な弱体化は目を覆うばかりである。初戦は辛くも2-1で勝ち連敗を9で止めたものの、翌日は何とホームラン8本、18得点を許す一方的な試合展開となり、地元ファンも相手バッターに拍手を送るほど自虐的になっている。微かな希望はマイナーから昇格して数試合目でホームランを連発したリオーネと、同じく今日がメジャー初出場のジェイコブセンである。
マリナーズのウェブサイトによると、ジェイコブセンは28歳、マイナーで8年間を過ごした苦労人である。これまで機会に恵まれてこなかったのだが、今年は3Aでホームラン26本、86打点という文句のない成績を残し、同じく3Aで21ホーマーを打って一足早く昇格したリオーネ(28歳)に続いた。「両親に電話する前は、父が興奮して母が泣いてしまう様子を想像していたんだけど、実際は母が大声で叫んで父が泣いてしまったよ」というエピソードにも心温まるものがある。
この記事ですっかりファンになってしまった僕は「今日はジェイコブセンを応援する」と気合いを入れてスタジアムに行ったのだが、さすがに目の肥えた地元ファンの多くも既に知っているようで、彼が打席に立つたびにイチローやブレット・ブーンを上回る大きな声援を送っていた。チームに希望のなくなったファンはすっかり元気をなくしている様子だが、ジェイコブセンのプレーに対しては、子供の成長を祈る親ような温かい空気が球場中に感じられた。空振りの多さから荒削りな面は否めないが、その巨体と思い切りの良いスイングは今後のブレイクを予感させる。二つの四球を含む2打数1安打は上々のデビューである。
一般の企業組織でも同じことが言えるのだが、成功したチームというのは組織の老朽化に対する認知、対処が遅れ、手がつけられない状態になって漸く再建の道を探る。数年前から予兆のあったマリナーズはその典型的な例である。しかし一部の金持ち球団を除き、この育成、繁栄、凋落、再建というサイクルがメジャーでは当たり前のものと認識されており、GMや監督の手腕はこの再建をいかにスムーズに行うかにあると言っても過言ではない。Aロッド放出後のレンジャース若手の急成長はチーム再建が予想以上に早く進んだサプライズであり、オールスターに無名の5選手を送り込んだインディアンスも今まさに再建モードから脱しつつある好例である。
マリナーズもエースのガルシアを放出して将来有望な若手選手を獲得。年俸8億円のオルルッドを事実上解雇。マイナーから次々に若手選手を登用するなど、その意思をはっきり表し始めた。人気選手のブーンにも移籍の噂が絶えない。再建中にお金がかけられないのも一般企業と同じである。昨日のUSA Today(後半戦の展望)でも「マリナーズはイチロー以外、全員がAvailableな状態」と分析されている。
ところで最近自分の中で「イチロー限界説」が説得力を持つようになっている。強肩と送球の正確さ、フィールディングを含め、ライトの守備は間違いなくメジャーでも超一流である。これは球場で観戦するとよく分かる。イチローのところに打球が飛ぶとランナーとサードコーチャーは端から進塁を一つ諦めるという抑止力が働いている。これは捕殺という数字には表れないイチローの飛びぬけた実力の証明である。今日もツーアウト1塁からワンバウンドでライトフェンスに達する長打が出たにも関わらず、ランナーが三塁で止まったのには驚いた。イチローもライトの一番深い位置からストライク返球でこれに応えた。観衆を魅了するという意味でも、守備だけでお金の取れる数少ない選手である。
ただバッティングに関しては、メジャーでは「超一流」ではない。ホームランを40本以上量産しながら軽く.330を打つような打者がごろごろいる中で、長打の少ないイチローが「超一流」と呼ばれるためには最低.350は打たなければいけない。もちろんメジャーというレベルの高さを踏まえた上での話である。
イチローが「超一流でない」という批判はこれまで聞いたことがない。日本での7年連続首位打者、メジャー1年目でのMVPといった輝かしい実績が未だに頭から離れないからだと思う。しかし2、3年目のイチローは打率を.321 .312 にまで下げ、今年も.320前後を行ったり来たりという状態が続いている。しかもこのうちの何割かはボテボテの内野安打やバント安打である。またアウトになっているときの内容が非常に悪い。体勢を崩されて当てるだけのバッティングがあまりにも多い。
イチローは長いスランプに入っているのか。それとも実力的な壁に直面しているのか。僕は後者と解釈し、その要因が「選球眼の悪さ」にあると感じている。僕の目から見る限り、イチローは「次の球を打つ」と決めたら多少球種やコースが難しくてもバットを振ってしまうタイプの打者である。「追い込まれるまでは自分の狙い球に的を絞る」というタイプの対極である。普通は後者が好打者の条件であり、前者は打率の安定しない二流選手に留まってしまうのだが、それでもイチローがここまでの選手でいられる要因は、彼の並外れた反射神経とバットコントロールである。クセ球だろうが、ボール球だろうが、とにかくバットに当てられるのである。
一方でこれはイチローの欠点でもある。難しい球やボール球を多く振ってしまうということは、いかにイチローのセンスをもってしても打ち損じが多くなる。1番打者としては少ないフォアボールの数も選球眼の悪さを裏付けている。「三振を取りにくい打者」という定着した形容も「三振を恐れた早打ちの結果」と捉えることもできる。
「イチロー限界説」は彼の持っている潜在能力に対する僕の確信と期待の裏返しでもある。三振を恐れずにじっくりとボールを見極めて自分のスイングができるかどうか。それがイチローの今後のメジャー人生を左右する課題となるのではないだろうか。5年後にスピードの衰えたイチローが、3番打者として.330、30本、100打点という数字を残せる選手になっているならば、僕のイチロー限界説は完全に覆されたことになる。
Wednesday, July 14, 2004
Bandon (OR)
そんな中で、全く期待していなかったバンドン(ただ泊まるだけでいいと思っていた)は、良い意味で僕の予想を裏切ってくれた。まずホテル(某有名チェーン)が、人もまばらな静かな海辺に、家族経営のペンションと言った趣きで佇んでいた。オーナーらしきフロントの男性もとても親切で「この街のことを知りたい」という僕に懇切丁寧にいろいろと説明してくれる。「ホテルの住所にFace Rockという地名があるけど、文字通り顔の形をした岩でもあるの?」という素朴な質問にも「その通り。すぐそこにあるビーチアクセスという道を辿れば見ることができるよ。そうそう、Face Rockにまつわる伝説も教えてあげなきゃいけないね」と雑誌の切り抜きか何かのコピーを渡してくれる。
それによると、昔々、他の部族に属するインディアンの若い女性がこの地を訪れた際に、現地の人々が「怪物がいる」と恐れる海に知らずに入ってしまったそうだ。怪物に引きずり込まれながらも、怪物の目に力があると察した女性は、決して目を合わせようとせず、そのまま空を見上げた形で岩になったということである。浜辺まで下りて行って眺めたFace Rockは確かに女性の顔のように見える。
旅行をしていて気づいたのだが、アメリカでは各地でこの種のインディアンの伝説に事欠かない。地名もインディアンの言葉に由来するものが非常に多い。インディアンを徹底的に駆逐しつつ、一方でインディアンの伝統や伝説を尊重するという矛盾。これもアメリカ国民の欺瞞を象徴しているようで、単純に伝説の美しさに感動する訳にもいかない。複雑な気分である。
ホテルに着く数マイル前に大きな虎の絵が書かれたGame Park Safariという看板を目にしていたので、それもフロントで尋ねてみると、子供の虎や熊、鹿などと直に触れ合える公園であるとのこと。動物好きの僕と妻にとってはかなり興味をくすぐられる公園である。チェックインを済ませると早速Game Park Safariへ。
ここは文句なしに面白い。San Diego Zooのような巨大な動物園は、ものすごい数の観光客でごったがえしている上に、動物を遥か遠くから眺めるだけで、どうにも消化不良である。しかしここは、狭い敷地の中になかなかお目にかかれないような動物たちがぎっしりつまっていて、至近距離で見ることができる。ベンガルタイガー、ベンガルホワイトタイガーをこんなに近くで見たのは生まれて初めてで、妻と二人でいきなり大興奮。その他にも、ライオンやレパード、ゴリラ、ブラックベアなどが見られた他、人間に危害を加えない草食動物(鹿、ヤギ、ラマ、ラバ等)は完全に放し飼いである。ラマなどはかなり巨大なので、至近距離に近づくと「本当に大丈夫かな」と思ってしまう。ヤギや鹿も一匹ずつなら問題ないのだが、これだけの数に囲まれるとさすがに身の危険を感じる。
寄ってきた小ヤギと遊ぼうとしていると、角の生えた立派な親ヤギがのそのそやって来てどうやら僕たちに警告を発している様子。やや気おされつつも、座って親ヤギの目を見ながら「ごめんね、邪魔しちゃって。でも大丈夫だよ。何も悪いことしないから。ね、安心して」と言うと、親ヤギは確かに「頷いて」その場を去って行った。ちょっと感動。ヤギと通じ合ってしまった。
平日の閉館間際とあってか、観光客は僕たちを含め十数人。飼育係の人がフェレットやよく分からない動物との写真撮影会を開いてくれいている。僕たちはフェレットはあまり好きではないのでその場を去ろうとすると「あなたたちは何と遊びたいの?」と聞いてくる。「できれば子熊と...」と言うと「ああ、熊はこの次よ」と即答するおばさん。しばらくフェレットに付き合うと、今度は年季の入った男性飼育係が登場、「生後1ヶ月くらいからこれを始めてるんだけど、もう4ヶ月になったから結構力が強くてね。隙を見せるとこっちがやられちゃうから」と完全防備のおじさん。
鎖につながれて出てきた小熊はものすごく可愛い反面、確かに相当力が強そうだ。じゃれているつもりでも、丸腰で接したらひとたまりもないだろう。ミルクを飲んでいる間は大人しいようで「背後から限定」で小熊に触れていいという許可が出る。それでも用意された二本の哺乳瓶をあっと言う間に飲み干し、係員の足元にまとわりついたり、長靴に噛み付いたりと元気のいい小熊。それに飽きると今度は何やら地面を一生懸命掘り始める。これは何時間見ていても飽きない。
夜はやはりフロントで教えてもらった海辺のシーフードレストランへ。間違って紛れ込んだ1階のラウンジではプライベートパーティが開かれていて、ラフな格好の日本人二人組は明らかに場違い。係の人に促されて2階のレストランへ移動する。それにしてもどこを向いても白人しかいない。サンフランシスコから北上して以来感じていたことだが、こと郊外の街となると白人比率が異常に高い。「アメリカ50州を読む地図」を読んでみると、例えば一見アフリカン・アメリカンがマジョリティに見えるジョージア州やルイジアナ州でも州全体で見ると割合は30%にも満たない。これから向かうモンタナ州やアイダホ州に至っては0.3%である。大都市で見かける多様な人種構成は米国のほんの表面に過ぎず、名もない小さな街まで含めるとアメリカは依然として白人が大多数を占める国なのである。
ただ「アメリカ50州を読む地図」によると、オレゴン州は政治的にとてもリベラルな州のようで、20世紀初頭に他州に先駆けて直接選挙やリコールシステムを導入した他、1971年のマリファナ解禁、1994年の住民投票による安楽死の承認などは世界的にも注目を集めたそうだ。共和党、民主党とも、特に強い地盤を持たず、州民は自主独立の気運を持ち続けているとのこと。米国はやはり多様性の国であり、人種でひとくくりにするものの見方は当然のことながら適当ではないということを改めて認識させられる。
ところで最初に妻が気づいたのだが、こういう田舎町に入っていくと、やたらとジロジロ見られることが多い。初めは気のせいだろうと思っていたのだが、明らかにこちらを凝視している人がいたりする。白人以外の人種がよっぽど珍しいのだろうか。過剰に意識する必要はないのだが、そんなときはやはりちょっと居心地が悪い。時々こっちから凝視してみようかと思うこともある(笑)。
ここバンドンのレストランも、白人夫婦ばかりが目についたのだが、そのうちの一人が帰り際に妻の"Dartmouth"と書かれたシャツを見て「おー、君はダートマスから来たのか?」と声をかけてきた。この日は海辺の寒さも手伝って、この旅始まって以来、初めてDartmouthのアイデンティティ(長袖スウェット)を掲げて歩いたのだが、その直前に「さすがにオレゴンの人は知らないだろうね。地元の学校くらいしか興味ないでしょ」という話をちょうどしていたところだったので「恐れ入りました」とオレゴン州民に敬意を表する。僕はTuckと書かれたスウェットを着ていたので「Tuckは知ってる?」と聞くと「もちろん。Tuck School of Businessだろ」と即答されたので、思わず顔がほころぶ。ただそれ以上会話は展開しなかったので、彼は特にダートマスやニューイングランドにゆかりがある訳ではなかったようだ(ただ単に知っていたというだけか)。
やはりダートマスのシャツはハノーバーで着ていても仕方がない。こういうときこそ自分のアイデンティティをアピールするのがアメリカ流なのだろう。これがハーバードだったりすると、ちょっと嫌味に見えたり、観光で買ってきたのかくらいに思われてしまうのかもしれないが、ダートマスというのはやっぱり渋い。知っている人が相対的に少ないだけに、声をかけられたときに話が弾む可能性は高い。
そう言えばハリウッドで突然対向のパトカーに呼び止められ、何事かとびっくりして窓を開けると、怖い顔をした警察官が顔色一つ変えずに「ニューハンプシャーのどこから来たんだ?」と聞いてきたことがあった。最初は何のことか分からず思わず聞き返したのだが、どうやら本当にどこから来たのか聞きたいらしい。「ハノーバーですけど」と言うと「ああ、ハノーバーか。知ってるよ。俺の知り合いがその辺にいるんだ。世界は狭いな」と言って去って行く警察官。どうやらナンバープレートを見て、声をかけずにはいられなかったらしい。
考えてみれば僕のCR-V号は、南部の田舎町でも、国立公園の山道でも、西海岸のダウンタウンでも、いつも誇らしげにニューハンプシャーのプレートを掲げて走ってきたのだ。日本を離れることで日本人としての誇り、アイデンティティを強く感じるのと同じように、ニューハンプシャーを離れて初めてニューイングランド、ダートマスのアイデンティティを意識するようになっているようだ。
Sunday, July 11, 2004
San Francisco (CA)
前日にヒッピー文化の予習も兼ねてPsych-Outという映画(1968年製作)を観た。フラワーチルドレンとも呼ばれるヒッピーたちのモットーは"Love and Peace"、生活はとにかくドラッグ一色である。誰が素面で誰がハイなのかもう訳が分からない。喧嘩が起こると周りから一斉に"Peace, man, peace. No war"という声がかかり、ドラッグで足許の覚束ない女の子たちから花やビーズのネックレスがかけられたりする。こんな退廃的な若者たちに「反戦」と言われてもあまりピンと来なかっただろうなというのが率直な感想であった。フォレスト・ガンプに出てくるヒロイン役のジェニーはまさにこのヒッピームーブメントの象徴である。
ヘイトに出かける前に、旅に出て以来、初めてのヘアカットに行ったのだが、1971年からベイエリアに住んでいるという日本人店長によると「まー、ヒッピーっていうのはベトナム戦争に借り出される前に楽しむだけ楽しんどけっていう感覚で男たちがドラッグとフリーセックスの文化を作ったんだよ。一種の新興宗教みたいなもんだよね。でも奴らに力はないからすぐ"Peace"とか言っちゃって」とのこと。彼の言葉は、僕がPsych-Outを観て持っていたイメージにピタリとはまった。
ところでブッシュを皮肉ったTシャツやグッズは全米各地で見かけるので最早珍しくも何ともない。反体制文化が根強いここヘイトストリートでは当然ケチョンケチョンである。「僕に脳みそさえあったなら」というのが今日の僕のお気に入り。しかしここでは初めてジョン・ケリーを皮肉ったTシャツを発見した。笑顔で手を振るケリーの顔の下に「それほど邪悪ではありません(Less Evil)。もう少しゆっくり後退します(Move Backward Less Fast)」とある。思わず買おうかと思うほど傑作だった。
この言葉は米国でのケリーの評判をうまく代弁している。あれほど批判の多いブッシュと未だに支持率で拮抗しているのは、民主党のケリーのキャラクターがインパクトに欠けるからに他ならない。ヘイトの路上で見かけた「とにかくブッシュ以外なら誰でもいい!ケリーに投票を!」と呼びかけるメッセージも、ケリーに対する皮肉と受け取れる。
先日副大統領候補にジョン・エドワーズをピックアップして以来、メディアもこの話題でもちきりである。いろいろと名前が挙がっていた中でエドワーズが有力候補に名乗りをあげたのは、ケリーの大衆に訴える力(Common touch)の弱さをエドワーズの若さと溌剌さで補うとともに、南部での票集め(ノースカロライナ出身)に期待するためというのが大方の評価である。
今日のCNNラリー・キング・ライブではケリーがテレサ夫人とともに出演していた。なぜエドワーズを選んだのか、二人の政策の違いをどう埋めるのか、もしあなたの身に何かが起こったとき彼は大統領として相応しいかなど、いつものように矢継ぎ早に質問が飛ぶ。ケリーは概ね無難に答えているようだったが、やはり画面から力強さ、カリスマ性は伝わって来ない。
面白かったのは、ラリー・キングがテレサ夫人にも多く質問を振っていた点である。質問内容は夫人の政治的なポリシー、副大統領候補選びへの関与などにまで及んでいた。アメリカではファーストレディーはただのお飾りではない。大統領同様に政治家であることが求められるのだ。日本で首相選出の際に、夫人がメディアに出て、このような質疑が行われるとは到底思えない。日本でも首相公選が行われるようになれば、国民の政治に対する関心は高まるだろうか。
Yosemite National Park (CA)
やや体調を崩してしまったので、トレイルなどをゆっくり回る時間が持てなかったのは残念だが、最終日に車で1時間かけてたどり着いたグレイシャーポイントから眺めた景色は絶景であった。個人的にはグランドキャニオンよりも美しく、雄大さでも決して引けをとらないと思う。写真ではうまく伝わらないのだが、僕にとっては「アメリカ国立公園の自然美」としていつも真っ先に思い出す光景になるだろう。
La Jolla (CA)
それでもアメリカという国の雰囲気を肌で感じ、いつかまたここに来るだろうという漠然とした目標を持てたという意味では、僕の人生に少なからぬ影響を与えてくれた1ヶ月であったと思う。
断片的な風景の記憶だけを頼りに、広大な敷地の校内を車で回る。当時は車に乗っていなかったので地理的感覚が残っていない。住んでいた寮の名前も何も覚えていない。ぐるぐる運転すること30分以上、漸くそれらしい場所を発見して車を止める。"Pepper Canyon Apartments"という看板を見て「あ、そう言えばそんな名前だった!ここに間違いない」と思わず早足になる。
更に歩き回ること10分(寮の敷地だけでもかなり広くて容易に見つからない)。「ここだ。1100番棟だ。懐かしい...」建物を見上げてしばし呆然。ここの2階の部屋に4人で寝泊りして、毎日自転車でクラスに通っていた記憶が鮮明に蘇る。もうあれから11年という月日が流れているということが俄かには信じがたい。本当にかつて自分がここにいたのだろうかという不思議な感覚に陥る。最後に駐車場で「また会おうね」と別れた友達とはその後、音信不通になってしまった。階段を昇ったり、いろんな角度から眺めた後、周囲の思い出に残っている風景(1, 2, 3)を写真に収め、UCSDを後にする。
ラ・ホヤの海は思わずため息が出るほど美しい。信じられないほど快適な気候も手伝って、この場から離れがたくなる。「なんで波って立つんだろうね」とか訳の分からない会話をしつつ、妻と岩場に座り込んで長い間ぼーっと海を眺める。
連日の移動で、昼食もろくに取らない日々が続いていたのだが、海辺のCrab Catcherという店のオイスターバーで「今日くらい贅沢しよう」とシャンパンに生牡蠣、蟹足を注文する。まずは出てきた生牡蠣の大きさにびっくり。しかもこれでたったの16ドル。このよく冷えた新鮮な生牡蠣にレモンをかけて一気に頬張る。旨い...こんなに美味しい生牡蠣を食べたのは初めてである。実は大きくても決して大味でなく、舌の上でとろけるような滑らかさ。街にはギャラリーが軒を連ね、観光客もまばらで喧騒とはかけ離れた世界。最高の気候に美しい海、新鮮な海の幸。今回は駆け足となってしまったが、ラ・ホヤは機会があればまたゆっくり滞在したい街ナンバー1である。
Monday, July 05, 2004
Fahrenheit 9/11
この映画はできるだけ早く見たいと思っていたのだが、公開直後の週末は長蛇の列でチケットを入手できない人が続出というニュースを見ていたので、事前にインターネットでLAの映画館をチェックしてチケットを購入。しかし当日、地図を頼りに探し当てた映画館はなぜかガラガラ。平日の昼だったからなのか、過熱報道なのか。サンプルが一つなので、その辺りはよく分からない。お陰でど真ん中の特等席でゆっくりくつろぎながら鑑賞することができた。
Fahrenheit 9/11を見終えた最初の感想は(前評判が強烈すぎたためか)思っていたよりも過激な内容ではないということだ。マイケル・ムーア流のブラックジョークを交えながら、基本的にはデータやインタビューを元に、ブッシュ政権にまつわる疑惑を追及するエンターテイメント系ドキュメンタリー映画である。以下Fahrenheitのネタバレを含むが、こうした内容は公開前から様々なウェブサイトで既に暴露されており(サスペンスやドラマでないだけに)事前に内容を知ってしまったことによる不利益は少ないように思う。
「9/11の後、ブッシュ大統領は新しい攻撃対象を見つけた。米国民である」というフレーズは耳になじみ易く、この映画のキーメッセージになっている。ナショナル・セキュリティに関する警告を定期的に発し(今週末にかけて9/11以来の大きなテロが起きる可能性があるなど。詳細は一切明かされず)、テロの悲劇、脅威を思い出させることによって国民の不安感、恐怖感を煽り、愛国心を高め、ブッシュ政権に対する支持を維持する狡猾な戦略と指摘されている。
500人強の国会議員のうち、自分の子供を軍隊に派遣しているのは一人だけという事実に抗議するために、ムーアが国会議員に街頭インタビューするシーンがある。「○○議員、これにサインしてあなたの息子さんを軍隊に入隊させて、イラクへ派遣するというのはどうですか?」目が点になってムーアを凝視する議員。「戦争を決めた議員であるあなた方の子供たちを真っ先に戦場へ送るべきではないのですか?」
その後、一人も署名しなかった事実を踏まえてムーアはこう続ける。「彼らを責めることはできない。なぜなら誰も自分の子供を死なせたくはないからだ。あなただってそうでしょう?この人(ブッシュ)だってそうでしょう」「いつも最初に犠牲になるのは、良い教育を受けられない、貧しい地域の若者たちである。皮肉なのは、彼らが、彼らを最下層に置いている階級システムそのものを維持するために、自分たちの命を賭けて戦っていることだ」
ミシガン州の貧民地区で、軍隊のリクルーティング活動が盛んに行われている映像がこの事実を補完している。比較的裕福な地区では若者が入隊に関心を示さないため、より貧しい地域に出向き、いかに軍隊の居心地が良いかを説明して回るリクルーターたち。
それにしても次から次に出てくる疑惑の数々。どうして民主主義の旗手を自認する米国でこのようなことがまかり通るのだろうか。9/11と直接関係はないが、僕が最もショックを受けたのは、4年前の大統領選挙の大どんでん返しに関する冒頭のシーンである。フロリダ州が最終決戦の舞台となり、一旦はメディアが一斉にゴアの勝利を速報したにも関わらず、ブッシュが勝利を収めた前代未聞の大混乱は記憶に新しい。
ムーアによると、当時のフロリダ州知事がブッシュの弟であり、投票をカウントしたのもブッシュキャンペーンのチェアマンであったということである。議会では「投票用紙に記載された人種データを基に多くの黒人票が排除された」というアフリカンアメリカンによる証言が相次ぐ。しかし上院議員の署名がないという理由でことごとく却下される。これが事実だとすれば、この米国という国に民主主義は存在しない。奇しくもセルマの投票権博物館でジョアンヌが言っていた「誰が投票をカウントしていると思う?」という疑問が、大統領選挙にも当てはまることになる。これでは2004年の大統領選挙が「民主的に」行われるという保証もどこにもない。
またこの映画で最も注目すべき点(憂慮すべき点)は、ブッシュ大統領とビンラディン家、タリバン、サウジ王族との密接なつながりであり、ブッシュ政権の中枢を占める個人がもつ石油、軍事ビジネスに対する利害関係であり、愛国者法に象徴される情報統制の強化、国家(国民)の私物化ではないだろうか。
分厚い冊子にまとめられた愛国者法は、ほとんどの議員が中身を読まないまま可決されたと言う。真夜中に作成され、真夜中に印刷され、当日に配られたため、誰も読んでいないというのである。なぜ読みもしない法案が可決されるのか。ある議員は「我々はほとんどの法案を読んでいないよ」という内幕を悪びれることなく暴露している。
Fahrenheit 9/11に関する疑問を解消すべく、ウェブで関連サイトを検索してみると、次から次に出てくるブッシュ大統領にまつわる疑惑の数々。CIAや政財界を牛耳る「スカルアンドボーンズ」というイェール大学のエリート秘密組織についても多くの情報が氾濫しており、JFK暗殺との関連にまで触れられているものもある。中でもこのサイトは執拗なまでにブッシュ政権の疑惑を洗い出し、その内容を批判的な観点から検証している。ブッシュ家の丘(The Bushy Knoll)に至っては、大統領としての適格性以前に、人間としての正気が問われている。こうした一方的な情報だけを読んで全てを鵜呑みにするのは危険なのかもしれない。しかしもしこれらの情報の中に一部でも真実が潜んでいるとすれば、ブッシュ政権は正真正銘のマフィアということになる。
そんなことをいろいろ調べていると、いつの間にか明け方になってしまう。自分は政治家でもなければジャーナリストでもない。キリがないのでこの辺で止めておくことにしよう。
Friday, July 02, 2004
Tuck on USA Today!!!
長文記事の中から印象に残ったパラグラフを三つほど残しておきたい。
Despite intense pressure to grow, current Tuck dean Paul Danos says Tuck is determined to maintain its reputation as a small, close-knit school that is neck-and-neck with bigger and better-known Ivy League rivals such as the Harvard Business School and the Wharton School of the University of Pennsylvania in the hotly contested MBA league tables.
インサイダー(Tuckの学長)の言葉ではあるが、これぞTuckの真骨頂である。
"Goldman is Tuck on Wall Street," the Boston-based Goldman managing director says. "Tuck has a unique culture among business schools. There is a focus on teamwork in a competitive environment. That is the Goldman culture."
こちらは外部の人、しかもGoldmanのディレクターの言葉だけに価値が高い。
Duncker, a football defensive halfback as an undergrad at Harvard, also expresses his delight with Tuck. "I was a bit of a slacker as an undergrad," he says. "I was the guy at the back of the class in sweats with my hat pulled down. I want to do it right the second time around. I'm mortally afraid of failure."
まるで自分の言葉をDesiが代弁してくれたかのようである。
LA Dodgers
夜はドジャースタジアムでドジャース対ジャイアンツを二日連続観戦。ドジャースタジアムは中学生のときの家族旅行以来15年振りである。当時はオーレル・ハーシュハイザーやカーク・ギブソンといったスター選手を擁し、ワールドシリーズ制覇を成し遂げるほど強いチームだったのだが、ここ数年はすっかり低迷。今年も現時点でナ・リーグ西地区3位。首位ジャイアンツとは3.5ゲーム差とやや離されつつあるので、この直接対決は絶対に落とせない重要なゲームである。
驚いたのがバリー・ボンスのすごさ。どうすごいかと言うと、まずドジャースの投手に全く勝負してもらえない。観戦初日は1回表の敬遠から始まり4打席4四球。ドジャースの先発ウィーバーが唯一まともに勝負した打席も2-1と追い込んでからストライクが投げられない。星稜高校時代の松井秀喜の4打席連続敬遠は大問題に発展したが、豪快な勝負を信条とするはずのメジャーでもこんなことが起こっている。当時の松井が高校レベルを超えた怪物だったのと同じように、バリー・ボンズだけはメジャーでも雲上人なのである。今年ボンズは既に116四死球を記録している(全打席の4割以上)。メジャー通算本塁打記録(ハンク・アーロンの755本塁打)まであと78本と迫っているボンズの最大の敵は彼自身の偉大さにある。
もう一つボンズのすごさが分かるのがドジャースファンの野次。ボンズが打席に入ったときのブーイングは言わずもがな、ドジャースの選手を応援するはずの手拍子の音楽が鳴る度に"Barry sucks! Barry sucks!"とレフトを守るボンズに野次を飛ばしては喜んでいる(試合の流れは完全に無視)。ほとんど長打、連打が期待できないドジャースの貧打線にも大きな責任があるのだが、こうしたボンズへの扱いは最大級の尊敬の裏返しでもある。
二日目。初めて生で観た野茂はひどかった。8連敗中と聞いてはいたので「いい加減勝つだろう」くらいの軽い気持ちで観に行ったのだが、とにかくストライクが全く入らない上に直球のスピードも82~85マイルしか出ない。仕方なく取りに行ったど真ん中のストライクはことごとく痛打される。あれでは高校野球でも通用しない。不幸中の幸いは、2日目で初めてバットを振らせてもらったバリー・ボンズが軽々とレフトスタンドに20号スリーランをかっ飛ばしてくれたことだ。楽しみにしていた野茂対ボンズは、結局このホームランを挟んでデッドボールとフォアボール、ボンズの存在感だけが改めて際立つ結果となった。
それにしても野茂はボールばかりで球数が多く、一球ごとの間合いも長いので、試合が完全に間延びしてしまう。ファンも怒りを通り越してあきれ顔である。僕の前に座ったお兄さんは野茂が大嫌いらしく、一球投げるたびに首を横に振って不満を露にし、一緒に来たガールフレンドや反対側の見ず知らずのおじさんに「野茂がいかにひどいか」をひたすら説明している。
彼だけではない。次第にあちこちから"Nomo sucks" "He’s bastard"という声が聞こえてくる。こういう生の空気は新聞報道ではなかなか伝わって来ないのだが、どうやら野茂はドジャースファンからすっかり見放され、嫌われてしまっているようだ。嫌われているというよりも憎まれているという表現が近い。3発目のホームランを打たれると球場中が大ブーイング。漸く監督が投手交代を告げにベンチを出ると拍手喝さい。降板する野茂は球場中から容赦ないブーイングを浴びせられていた。「金返せ」とはまさにこういうゲームのことを言うのだろう。僕もがっかりすると同時に本当に頭に来た。このピッチング(しかも9連敗)ではもう先発ローテーションから外されるだろう。35歳の野茂のメジャー人生は今年限りかもしれない。
「食当たり」ならぬ「野茂当たり」で物理的にすっかり気持ち悪くなってしまった僕は、野茂降板と同時に5回を持たずして球場を後にする。メジャー観戦でこんなに早く家路に着くのは初めてのことだ。疲れもたまっているので、この野茂当たりで熱など出さないようしっかり睡眠をとらなければ。